日本人の鉛曝露のトレンド
鉛は、製錬技術が未熟でも低温で融解可能なことから、太古以来最も使われてきた金属である。この一方、2000年以降疫学調査で鉛は、小児において閾値はなく長期にわたる高次機能障害を引き起こすことが明らかにされた。そのため、従来の許容値の考えは撤廃され、できる限り低い値に保つこととされている。
我が国において、鉛曝露はいつ頃から起こったのであろうか。1980年代以降、1日当たりの食事由来の鉛、全血中濃度は、減少し続けている(図1)。70年代は、血中濃度が高く、我が国における一般人口においても血中濃度が100μg/Lを超える人はざらにいた。2010年の現在では、値はおおよそ10μg/L以下であり、10分の1以下に減少した。減少をもたらした要因として、①ガソリン中の有機鉛の除去②石炭など化石燃料の使用の減少―が大きいことが知られている。では、さらに長期の傾向はどうであろう。
縄文期から現代に至るまでの長期の重金属の曝露を評価するためには、それなりの評価する試料を選択する必要がある。すなわち、生前の鉛曝露を閉じ込めたカプセルのような試料がいるのである。歯のエナメル質は、小児期に形成され、その時期の鉛を歯のエナメル質の結晶構造に取り込み生涯その基質の代謝は起こらない。さらに、燃焼されない限り土中に置かれても置換は生じない。そこで、このような特性に注目し、歯のエナメル質中の重金属を分析することにした。
図2に、縄文人から現代人までの歯牙エナメル中の鉛(Pb)、水銀(Hg)、銅(Cu)および亜鉛(Zn)の分析の結果を示した。鉛は予想通り江戸期の支配層である武士階級で高い。当時の女性は鉛白をお白いとして利用していたためである。驚くべきことに幕府お抱え絵師では、大量に蓄積していた。絵具に鉛が含まれていたためである。一方水銀では、縄文人に高い傾向がある。さらに、銅では、鎌倉人が高い。この理由として、この鎌倉人は、京都の東寺近辺の仏師集団を含むためと考えられる。江戸のお抱え絵師も高く、絵具に含まれていたことを示す。血中の亜鉛は、動物たんぱく質の摂取量に比例すると言われており、現代人が最も高い。
このように、我が国においては、高濃度の鉛曝露は江戸期に発生しており、乳幼児の死亡率の高さの一つの原因だと考えられる。また、縄文時代や江戸時代のスローライフの過去に重金属汚染はなかったというのは幻想であることがよくわかる。縄文人は、おそらく噴火による水銀曝露を受けていた可能性が高い。このように歯のエナメル質の重金属の測定は、長期における曝露を評価するには有用である。
再び天のシニカルな声、「歯の試料調整時のコンタミ※ちゃうの?」。ごもっとも。そこで、歯のエナメル質中の重金属のばらつきを評価することが必要となる。通常のICPマスは、定量性には優れるが、極小さいサンプル内部の分布の均一性を評価はできない。アーチファクトによるコンタミン汚染では、均一性がない。微小な領域の分布の評価のため、SPring 8 を用いることにした。
(つづく)
※contamination:化学実験における異物混入や汚染を指す
図1 日本人における鉛曝露
1979年から2008年までの観察
図2 歯牙エナメル中の重金属濃度(μg/g)