平和憲法を改憲して何を求めるのか
木村 敏之(宇治久世)
日本の周辺のみならず、あちこちに、ことに当たっては直ちに武力国家に変わりかねない国々が見られ、特に格差、領土問題が絡むと複雑で自国中心主義になりやすい。過去二度の世界大戦を経験した主要国中心に、経済発展は一見平和で安定している国々が大半で、テロ活動にも否定的である。しかし、資本主義経済の下、新自由主義と規制緩和を利用した巨大企業がIT技術の急速な発展とともに金融資本の蓄積に走り、目に余る格差社会は、ついに世界の富の8割が1%の人々に集中しているという報告も見られるほどに、とんでもない富の偏った社会を生んでしまった。
一方、人間が本来持っている直観による批判、分析能力(言い換えれば目や耳からのみ入ってくる情報は、肌で感じながらすべての感覚とバランスを取り判断する直感能力があるとされる)など五感を失いつつあるのではないか大変心配し訴えている学者も多い。政治家にとっては舵取りが大変難しい時代である。
さて、多大な犠牲を払って得た人智の結晶である「戦力としての武力放棄を宣言した平和憲法」は、この地球上に生まれた磨き抜かれた宝物ではないだろうかと私は思う。日本国憲法は、超情報化社会と先端科学技術の進歩が、今にも人類が神の領域に接近するのではないかと危惧される時代にぴったりの、新感覚の世界に誇れる未来につながると思わせるものがある。
もちろん将来、時代に沿った新しい感覚でこの憲法を改正しなければならない事態も来るかもしれないが、いま一政治家の思い付きで国民の過半数が疑問を持つとんでもない法文を追加するなどは、日本国民の利益には程遠く、憲法の基本的理念とは相いれないものだ。人的、物的に悲惨な犠牲を払い、そこから得た教訓に多くの関係者の直感と将来を見据えた議論、討論から生まれた能力の枠を集めた日本の平和憲法は、次世代の人類発展には欠かせない知恵が詰め込まれており、将来長きにわたり憲法制定の見本となろう。そうあらねばならないと信じる国民は日本人だけではない。頭脳の固い世代には、過去の時間はなぜか思い出深い古い1枚のスライドのごとく歴史の産物で、将来を切り開く脳力に欠き、空間と時間の無駄な動きで日本を危機にさらさぬよう、ここは柔軟性に富んだ大脳に大いに頼りたい。
話が少し飛躍するが、現代の高度に拡大した情報が若者にとりついたためか(代表がスマートフォン?)、少し心細い。莫大な情報を生かすも殺すも、今日に生きている人間なのだ。心の目を開き、二度と得られない“宝物”を取られないようしっかり守らなければならない貴重な時間である。