標高3250mの元祖室【がんそむろ】・天拝宮に着く(写真)。ここに江戸時代に富士山巡礼の火付け役となった食行身禄【じきぎょうみろく】が祭られており、巡礼登山の聖地として知られている。富士山五合目以上に存在する社殿は頂上の久須志神社、浅間大社奥宮とこの富士山天拝宮の三カ所のみである。同名の山小屋もある。
古代より、富士山の神々しいまでの秀麗な姿は神霊の宿る霊峰とされ畏敬、崇拝の対象であり、また幾度となく激しい噴火を繰り返し荒々しく火の神が猛威を示し畏怖を与える「荒ぶる山」としてとらえられてきた。永らく、麓にて祭祀が行われ、はるかにその姿の見える場所から遙拝されてきたが、時代が下り、仏教の教えが広まるとともに、修験道などの影響を強く受け、修行を通して超自然的な験力を得たいがために、室町時代には庶民の間でも信仰登山が盛んになっていった。
狭義の富士講は、戦国時代から江戸時代初期に富士山麓の人穴【ひとあな】(富士宮市)で修業した長谷川角行(1541~1646、105歳!?)という修験者の流れをくむ行者によって創唱され、その一派が継承した富士信仰に由来する。
角行は元亀3(1572)年に初めての富士登山を北口(吉田口)から行った。天和6年江戸に「ツキタオシ」という奇病が流行し、3日で1千人の死者を出す中で、角行は風先■[にんべんに米]【ふせぎ】という御符を授け祈祷の力によって多くの患者の命を救ったと言われた。このことから江戸の多くの人々に富士信仰が広まったといわれている。角行の思想は既存の宗教勢力に属さないものだった。しかし、この頃はまだ富士講の組織は存在せず、信仰を共にする小規模の師弟集団だったが、角行から数えて五世となる月行は、正統の法派を継いだ月心に対して別流として独立した。彼は伊藤身禄(1671~1733)に出会い、熱心に富士信仰の道を説き、深く感銘を受けた身禄は、1688年、月行の弟子となり行商で身をたてつつ信仰を深めていった。やがて身禄は元来の勤勉実直さにより莫大な資産を築いたが、60歳の時、全財産を残らず使用人に分かち与え、自身は行商人に戻り、妻子とともに質素な暮らしを始めた。
当時華やかな正統派の「大名(村上)光清」に対して「乞食身禄」とまで言われながらも、四民平等・男女平等・勤勉力行・諸事倹約等、道徳規範を中心に富士信仰を説いた。享保18(1733)年6月10日、63歳の時、社の脇の烏帽子岩【えぼしいわ】の岩窟で、富士の雪水を飲むだけの断食瞑想に入り、31日後に入定(入定とは、断食して絶命しミイラとなる行為)し、即身仏になった。当時、相次いで起こった西国の大飢饉や物価の高騰、米問屋の買占めで江戸が未曾有の米不足となり、一揆、打ちこわしなどの社会的不安が起こっていた時代であった。身禄が生まれ変わって万民を救済したいと行った、最後にして最大の修行が「入定」なのである。
一方、大名・富裕層からの支持が篤い村上派との差を痛感した彼の起死回生の策だとの意地悪い意見もあるが、身禄入定の話は江戸庶民の心を強く捉え、身禄は救世主、教祖的な存在として、現世に不満を抱く人々から熱狂的な支持を受けた。富士山信仰における富士道中興の元祖、すなわち元祖 食行身禄(行名は断食行から)と称えられ「身禄講に非ざれば富士講に非ず」とさえ言われるほどになった。