京都市長の変遷も見ておきたい。
舩橋求己市長(1971~1981)、今川正彦市長(1981~1989)時代は「五色豆」(文字通りのオール与党)と呼ばれた。しかし1985年6月議会で、今川市長は「戦後40年の発展は政権政党である自民党のおかげ」「(今後は)自民党と十分連携をとりながらやっていく」と答弁。五色豆体制は崩壊した。京都財界の圧力により市政は建都1200年事業を中心に開発型行政へ一気に突き進んだ。市は財政と規制緩和で決定的な役割を果たした。
桝本賴兼市長(1996~2004)時代、京都財界トップが選挙演説で「財界と意見の違う人が市長になるのは許せない」と演説し南部開発が進められた。だが三期目頃から京都財界は京都市政への関心を急速に失い本格的政策提言をしなくなった。
その背景に、京都企業のグローバル化と代替わりがある。第2世代の社長は就任時からグローバル化した企業を受け継いだ。父親の代は高度成長期の京都の在り方に大きな関心とこだわりを持ち、起業した人物だったが第2世代には関係がない。
2007年、京都市の「新景観政策」に対し、京都財界が大きく揺れた。不動産・建設業界は猛烈に反対したが、当時の京商会頭は景観政策に賛成し、戦後京都の景観が乱れ過ぎたこと、50年後100年後を見据え、美しい京都を取り戻すとコメントしたのである。
これは、グローバル化した京都企業が開発から京都の高い「付加価値」を求めるようになったことを宣言したものと言えるだろう。
MENU