関 浩(宇治久世)
伝 説
(イ)598(推古天皇6)年、聖徳太子が甲斐の国から献上された足の白い黒馬をたいそう気に入り、大切に育てていた。ある日、太子が黒馬にまたがって一鞭いれた。すると、まわりの浮き雲が馬を包みこんだ。雲に包まれた馬は聖徳太子を乗せたまま東の空に消えていった。戻ってきた聖徳太子は「雲につつまれて空を飛んだと思ったら、着いたのは富士山頂だった」と言った。聖徳太子がはじめて富士山頂上をきわめ、信濃国まで行き、わずか3日で奈良の都まで戻ってきたという(藤原兼輔「聖徳太子伝暦(でんりゃく)」917年)(写真1)。
(ロ)役行者(えんのぎょうじゃ)(あるいは役小角(えんのおづの))は奈良時代初期、大和国葛城郡茅原に生まれ、修験道の開祖とされる。呪術を使って人をたぶらかしたとの讒言を受け伊豆大島に流罪になるが、海上を陸と同じように走ることができ、鳳凰のように空を飛ぶことができる彼は、昼は勅命に従って島で修業し、夜になると島から海を渡って駿河の富士山に登って修行をしたといわれ、「富士開山の祖」とされている。空を飛び、鬼を使役させたスーパー仙人だった(薬師寺の僧・景戒(きょうかい)「日本霊異記」824年)と伝わる(写真2)。
(ハ)昔、富士山には女の神様、浅間(せんげん)がいた。また八ヶ岳には男の神様、権現(ごんげん)がいた。どちらも背が高く美しい山だったが、どちらが本当に背が高いのか勝負することにした。
方法は両方の頂上に樋をかけて、真ん中から水を流す方法。すると水は樋の中を富士山に向かって流れ、高さ比べで八ヶ岳が勝った。勝負に負けた富士山の女の神様はくやしがって、長い棒で八ヶ岳の頂上を叩いた。そのため八ヶ岳の頂上は8つに割れて8つの峰ができ、高さも富士山より低くなってしまったのだ。
強力(ごうりき)
剛力とも記し、古くは修験(しゅげん)者や山伏などの荷、飲食物を背負って霊山に登りガイドの役目も果たした従者が「強力」の原形とみなされる。
富士登山のもっと古い記録は、平安時代にさかのぼり、修行者の修験山として崇められてきた。さらに時代が下り、富士山を信仰する多くの人々が登るようになり、宿坊や登山道が整備されていった。
富士を修行の場と考える集団の代表的なものに「富士講」がある。富士講は江戸を中心とした関東で広まった。この富士講のリーダーを先達(せんだつ)といい、山道を案内する役目も果たしていた。独特の白い装束を身に着けている。富士山に登るとき修行者たちは頭には白木綿の宝冠(法冠)、手甲・脚絆をつけ、草鞋履きで金剛杖を突き「六根清浄、お山は快晴」と掛け声をかけながら登った(写真3)。「どっこいしょ」という言葉の語源はこの六根清浄(ろっこんしょうじょう)が由来といわれている。六根とは眼根(げんこん)、鼻根(びこん)、耳根(にこん)、舌根(ぜつこん)、身根(しんこん)、意根(いこん)でこの六つから生まれるあらゆる欲を捨て去る意味がある。荷物を背負ってくれる強力を帯同するのが常だった。
出典:『富士山まるごと大百科』佐野充(学研2015教育出版社、2015)
(写真1)富士駆け上がる聖徳太子
(写真2)役行者像
(写真3)富士山巡礼者。日下部金兵衛 撮影 1880年