関 浩(宇治久世)
第4回
かつての「信仰登山」から「観光登山」へ
富士スバルラインが開通したのは1964(昭和39)年、これによって富士山の五合目(2305m)まで車で行けるようになった。夏山シーズンは7月1日(吉田口ルート)の山開きから9月上旬の閉山までである。山麓一帯には年間3千万人以上が訪れ、そのうち約4百万人が五合目まで行き、さらに頂上を目指して登山するのは30万人と爆発的に増加した。かつての「信仰の山」は「日本一の高さの観光の山」と劇的に変貌した。五合目から頂上まで1471mと、普通の体力で7時間もあれば登頂が可能といわれ、山小屋に泊まらず、睡眠もとらず登頂し、ご来光を拝みそのまま下山する弾丸ツアーと呼ばれる登山者もいる。現在、山小屋数は47軒を数えるが、山小屋の評判はといえばあまり芳しくない。
曰く定員一杯のところに、まだ詰め込む。見も知らぬ他人と3人で2枚の布団で寝なければならない。うとうとしたところで、深夜どやどやと十数人が入ってきて、彼らが落ち着くまで時間がかかる。案内する山小屋の従業員の金切り声が耳につく。従業員はほとんど夏場のアルバイトで山の知識がほとんどない。到着から深夜出発なら滞在5、6時間、それが1泊2食で7千円から8千円代もかかる。水は貴重品でシャワーもない。歯磨きは持参の水でするしかない、などと設備やサービスに対する不満からである。
山小屋側にも言い分はある。2カ月余で30万人の宿泊者を捌かなければならない。緊急避難のための施設であるから予約がなくても受け入れざるを得ない場合もある。24時間体制で体が休まるひまもない。ちなみに、本来的に、山小屋は「避難小屋」であり、簡素なつくりでしかなく、宿泊所というより登頂のための「身体を休める休憩所」と割りきってもらいたいとの意見もある。
真っ暗な中、頂上を目指す登山者が白い息を吐き、声を掛け合い、山小屋の窓から漏れる灯火に横顔を照らしながら、三々五々と通り過ぎていく。
もうすぐ夜明けだ。待つことしばし、一条の煌めきが漆黒の雲海を矢のように射り、やがて重なり四海を照らす(写真1)。日の出は4時50分、4℃、少し寒い。
朝食の弁当が渡されたが食欲は全くなく、残れば捨てる場所もなく断った。
6時半頃出発、ここからは今夜の宿泊と明日の帰りのバスの時間までは全くの個人行動となる。
七合目の最後の山小屋の東洋館への登りにかかる。途中の溶岩岩場で他のツアー参加の小太りの女性が座り込んでいる(写真2)。頭痛、めまい、嘔気、息苦しさと高山病の症状が見られ、付き添いのガイドが対応している。睡眠不足もこたえるのだ。急な岩場を越えて最後の階段を上れば、東洋館だ。地形が急なので小股でバランスをとりながらゆっくり登ることが肝要だ。