エッセイ なぜあの人にオーラを感じるのか  PDF

辻 俊明(西陣)

 大物俳優が舞台にあがると、パッと周りが明るく照らされるように感じることがある。その俳優はもしかしたら不遇な幼少期を過ごし、苦節の連続で、そのなかでも負けずに頑張ってやっと栄光をつかんだのかもしれない。あるいは一見順調に見える人生でも、誰も知らないところで大変な努力をしていたのかもしれない。あんなに頑張ったのにどうしてもうまくいかず自暴自棄になってしまった過去や、そんな中、意外な人から助けてもらった経験など、すべてがギュッと詰まってオーラとなって表れる。背負ってきたものが大きければ大きいほど、オーラも大きくなる。観客も真剣に生きてきた人だけが、それを自分の人生に重ねることができる。オーラとは存在感である。
 ラーメン店でラーメンを選ぶとき、なんだか知らないけどネギラーメンに目がくぎづけになることがある。頭で考えると味噌なのだけれども、なぜか心はネギにいってしまう。このなんとなくという感覚はそこにオーラがあるという証拠だ。それが正しいかどうかは注文すればわかる。必ずネギで正解だったということになる。オーラとは真実である。だからあの子が「あんたなんか大嫌い」と言ったとしても、オーラが「あなたが大好きです」なら、そっちが真実だ。
 清少納言が春の夜明けに東山連峰で見たものや、荒井由実さんがドルフィンでソーダ水の向こうに見たもの、貝殻に乗ったヴィーナスの戸惑いの表情などもみんなオーラだ。それらのオーラが私たちを包むとき、そこでは時空はなくなり、この世とあの世の境もなくなり、私たちの心はその人たちの感じたセンチメンタリズムと一つに溶け合うことになる。オーラは、たとえようもなくうっとりと気持ちがいい。
 この世界は物質でできているようで、実はオーラでできている。見えないからないのではなく、見えないからあるのだ。ひとたびオーラの美しさを認識し、そしてそれがより真実の存在であることがわかると、目の前の出来事はたいしたことではなくなる。たとえ不本意な現実があらわれていても、どうでもよくなる。あまりどうこう考えても仕方がない。どんな状況であってもオーラがゴーサインを出していれば、ためらうことなくゴーなのだ。
 追伸:ぼくには君のオーラが見える。

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