京都市の児童館・学童保育事業は当初から公設民営でスタートした。
黎明期は1970年代の児童館条例で制度化された時期であり、第1種児童館(120㎡)・第2種児童館(市電車両を活用したもの)があった。
成長期は、量的拡大の時期である。当時の児童館は子どもの遊び場としては狭く、運営は地元に委託し、職員は近所のパートの主婦と学生アルバイトが担っていた。
最初の転換点には二つの事情があった。
一つは学童保育の子どもたちが学童保育の中だけで遊ぶことにより、地域の子どもたちに溶け込みにくくなるという弊害が一部に生じたことである。そこから児童館で学童保育事業を行う「一元化児童館」方向へつながっていった。当時は今よりも国と自治体が政策コミュニティーとして協働できた時代であり、この考え方は厚生省でも「都市型児童館」という制度になり補助金拡充へつながった。
二つ目は働いている方々の処遇改善である。将来展望を持ちにくい固定給制から、定期昇給のある給料表制へ移行された。
第二の転換点は受託者の大規模化だった。
それまでは多数の施設が各種地域団体の方々による運営委員会で運営されており、行政担当者は育友会をはじめ地域の諸団体に足を運び、運営委員会設立をお願いして回った。我々担当者はそれを地域と行政の連携構築の一環と考えていた。しかしその後「効率化」が優先され、一つの事業者が多数の事業所を運営するようになり、受託者は大規模化していった。
さらに元教育長の桝本氏が市長になって学校敷地の児童館への利用が受け入れられるようになり、新設が進んだのもこの時期である。地域との連携が課題となる中、児童館の地域開放も着手された。
現在のところ、京都市では大規模受託者とはいえ、主に社会福祉協議会や社会福祉協会が事業を担っている。これらは京都市と縁が深く地域とのつながりもある団体で、地域との関係は維持されていると考えられる。しかし、今後さらなる効率化を求めて指定管理者制度の運用が変われば地域との結びつきが弱くなることが懸念される。
振り返ると、一元化児童館の成果は、学童保育所と児童館の一体化によって地域との一体化をもたらしたこと。それから職員給与制度の確立である。保護者、労働組合、行政と運営団体が、対立する立場がありながらも話し合いを繰り返していった成果だと考えている。
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