医療制度検討委員会
提言に向け検討開始
佛教大学保健医療技術学部看護学科
折坂 義雄 教授
1948年 香川県で出生
1970年 京都大学法学部卒業、同年京都市役所入庁、左京福祉事務所ケースワーカー
1988年 民生局庶務課長、保険局・民生局理事兼職、保健福祉局長、消防局長等
2008年 佛教大学客員教授
2010年 現職
協会は政策部会に医療制度検討委員会を設置し、医療崩壊、地域包括ケアシステム、新専門医制度等、その時期に焦点となっていた事柄について、現場医療者の視点から分析し、要望・提言をまとめる取り組みをすすめている。9月19日、2017年度第1回となる医療制度検討委員会を開催。今年度から新たな委員として小泉昭夫氏(京都大学医学研究科環境衛生学分野教授)を迎え、①地方自治体の保健・医療・福祉政策の再建と発展に向けた提言とりまとめ②開業保険医運動の歴史の編纂 を中心テーマに検討する。
第1回は、主に①のテーマにかかわって佛教大学の保健医療技術学部看護学科教授の折坂義雄氏を招いて講演をきいた。
折坂氏は、1970年に京都市に入局。ケースワーカーとして出発し、保健福祉局長、消防局長を歴任。桝本頼兼市政時代の福祉行政の責任者として活躍された。その経験から在職時代の市福祉行政について、貴重な講演をきくことができた。以下に講演録を掲載する。
高齢者福祉分野 介護保険制度のスムーズな出発
私が保健福祉局長に着任した当時、2001年からスタートしていた介護保険制度が第2期に突入した。当時出演したKBS京都のテレビ番組で「京都市の介護保険は最悪」とのテロップが出された。「最悪」が意味するのは不正請求が多いこと、保険財政が赤字であることだった。私は「京都市の介護保険は保険者にとっては最悪かもしれないが、利用者にとっては最善だ」と述べた。不正請求の実態が明るみに出たのは、京都府・京都市の協調した不正摘発の取り組みがあったからである。また、保険財政が赤字であるということはサービス利用が進んでいるからであり、その背景として、京都市では制度施行前から施設や在宅サービスの人材養成など、基盤整備が進んでいたからである。第2期以降は給付対象者数や介護認定率の増加はなだらかになっていった。
児童福祉分野 国基準を上回っていた施策
児童福祉分野は保育対策・児童健全育成、要援護児童対策、心身障害児対策、養育者支援対策、母子(父子)対策、母子保健対策に大別できる。
全国的にみると児童福祉施策はいずれも1970年代から徐々に強化・増加し始め、コンスタントに成長し、80年代のブレークスルーを経て90年にほぼ充足に至る。
この分野での京都市の独自施策は、事業そのものが国にない「独自事業(保育少子化対策・健全育成・少子化対策等の先駆的な事業)」、国の施策にはあるが基準では安全な保育等が困難なため、充実させる「独自充実」がある。
私が保健福祉局長だった時期には保育所運営費は国基準を33%上回り、保育料は国基準を34%下回っていた。
京都市は1970年代の「福祉の風土づくり」の時代から営々と先人が築きあげてきた伝統があり、当時の京都市の福祉の理念は全国的に抜きん出ていると自負していた。
保育所施策
今日も少子化対策は重大な課題であり、多くの自治体が保育対策を進めているが、その評価指標として量・質・負担の3点を挙げておきたい。量とは、待機児童の人数と施設数である。二つ目の質とは、病児、障害児、夜間など多様なニーズへの対応と良質で安全な保育を確保するための施設・職員配置の基準である。三つ目は利用者負担であり、保護者の経済状況に応じた保育料軽減である。この指標に基づいて政策を進めるならば、自治体の建設・運営経費への超過負担は避けられない。今日の状況を見ると、いくつかの自治体では定員のみを増やし、職員には非正規雇用や無資格者を多用する等といった手法で待機児童減少の成果を誇っているが、これは子どもたちの安全を犠牲にした見せかけの待機児童対策ではないか。
京都市は独自充実として①職員処遇②保育内容③施設面積援護―を行っていた。自治体財政がさらに窮乏する中で、それらの仕組みが維持されるのか、不安を禁じ得ない。
また私が局長時代、国が幼保一元化に取り組み始めた。主に政治レベルで進められた政策であり、保育所と幼稚園という、職員配置も保育時間帯も、さらに存在意義も違うものとして長年運営されてきた制度を合体するという政策である。当初は抵抗が強かった文科省、厚労省が一元化へ動き始めた背景として理念的には両施設の長所を生かすということが主張されたが、現実には保育所が主流となったことで幼稚園の利用者が減少するという構造的な要因への対応という政治的要請が文科省にはあり、厚労省にとっては増加する保育需要に対してコストを抑制するという長期的な財政的要請が背景にあるという議論もされていた。
幼保一元化について、京都市会での対応で、私は「保育所と同じレベルの処遇ができるなら反対はしない」と一貫して主張した。
私が大学へ移って、社会・経済全体の視点から福祉を観察するようになって、当時を振り返って感じていた違和感は、本来経済原理である市場主義を「社会福祉の基礎構造改革」という形で画一的に福祉の分野へ持ち込むことで、子どもたちの安全さえ脅かされかねないというリスクである。
児童館・学童保育所施策
京都市の児童館・学童保育事業は当初から公設民営でスタートした。
黎明期は1970年代の児童館条例で制度化された時期であり、第1種児童館(120㎡)・第2種児童館(市電車両を活用したもの)があった。
成長期は、量的拡大の時期である。当時の児童館は子どもの遊び場としては狭く、運営は地元に委託し、職員は近所のパートの主婦と学生アルバイトが担っていた。
最初の転換点には二つの事情があった。
一つは学童保育の子どもたちが学童保育の中だけで遊ぶことにより、地域の子どもたちに溶け込みにくくなるという弊害が一部に生じたことである。そこから児童館で学童保育事業を行う「一元化児童館」方向へつながっていった。当時は今よりも国と自治体が政策コミュニティーとして協働できた時代であり、この考え方は厚生省でも「都市型児童館」という制度になり補助金拡充へつながった。
二つ目は働いている方々の処遇改善である。将来展望を持ちにくい固定給制から、定期昇給のある給料表制へ移行された。
第二の転換点は受託者の大規模化だった。
それまでは多数の施設が各種地域団体の方々による運営委員会で運営されており、行政担当者は育友会をはじめ地域の諸団体に足を運び、運営委員会設立をお願いして回った。我々担当者はそれを地域と行政の連携構築の一環と考えていた。しかしその後「効率化」が優先され、一つの事業者が多数の事業所を運営するようになり、受託者は大規模化していった。
さらに元教育長の桝本氏が市長になって学校敷地の児童館への利用が受け入れられるようになり、新設が進んだのもこの時期である。地域との連携が課題となる中、児童館の地域開放も着手された。
現在のところ、京都市では大規模受託者とはいえ、主に社会福祉協議会や社会福祉協会が事業を担っている。これらは京都市と縁が深く地域とのつながりもある団体で、地域との関係は維持されていると考えられる。しかし、今後さらなる効率化を求めて指定管理者制度の運用が変われば地域との結びつきが弱くなることが懸念される。
振り返ると、一元化児童館の成果は、学童保育所と児童館の一体化によって地域との一体化をもたらしたこと。それから職員給与制度の確立である。保護者、労働組合、行政と運営団体が、対立する立場がありながらも話し合いを繰り返していった成果だと考えている。
要援護児童対策
要援護児童対策の拠点は児童福祉センターである。現在は伏見にも第二児童福祉センターがある。児童福祉センターは、「児童院」(1931年)を原点としている。戦後1948年に心理部を創設、以来徐々に充実してきた。81年には児童福祉センターへ改組。乳幼児期の障害児教育に重点を置くため「総合療育事業」を開始した。
児童相談所は時代とともにニーズに応えて変化してきた。
児童虐待の件数は1998年から急増した。実件数が増えたことに加えて、児童虐待への認識が市民に共有され始めたことが大きな要因である。
国もさまざまな対策を進め、2007年には家に入れてくれないケースで、警察官が同行し、鍵を壊し、踏み込めるようになった。しかし現場での適用は国と現場の間でギャップがあった。国が虐待による事故防止に力点を注ぐのに対し、京都市の現場ケースワーカーは親子関係の再統合を目指していた。
京都市では2001年に子ども虐待アクティブチーム・子ども虐待SOSを開始した。04年には子ども虐待防止ケアチームを新設。2班10人体制で「親子関係の再統合」を図るものだ。虐待に至らないためには観察が重要であり、その体制確立も必要と考えられた。職員体制では児童福祉司を国基準の30人を大きく上回る41人を配置し、相談支援組織を整備し、虐待防止専従班と地域班を設置し、個人恫喝など困難なケースにもチームプレーで対処できる体制をとった。
次に障害児施策は三つの段階で発展した。
第1段階は、家庭内保護から社会へである。
第2段階は、障害別施設の整備である。総合療育所の中に障害別の学級をつくり、小さな時から早期療育を実施するようになった。1995年に自閉症外来を開始、99年に伏見区に児童療育センターを設立。2005年には機構改革で「要保護児童・虐待部門」と「障害部門」に再編した。
第3段階は、新分野拡大であり、発達障害児(アスペルガー症候群)の顕在化を行った。
発達障害者支援センター「かがやき」は、アスペルガーを中心とする、早期発見、早期療育から社会人の相談事業までライフステージをカバーする発達障害対応の拠点である。
当時、全国的にはアスペルガーは知られておらず、一般に行儀の悪さは躾のせいと考えられ、母親が非難されることも多かった。
児童福祉センターの医師が数少ない専門家として休日返上で全国への普及啓発技術指導に努めていた。京都市周辺の都市からも来訪者が多く、待機者が急増していた。
このため拠点整備が進められ、機能面・人員面で最高の施設を目指した。市の財政はさらに逼迫しつつあったが、要求通り予算が認められ、国基準4人に対して委託先職員7人と京都市との兼職職員でスタートすることができた。
障害者支援
障害者施策は、障害者自立支援法以前は援護施策と施設福祉施策で構成されていた。
施設サービスは通所施設を中心としており、かつて保護者の方々が立ち上げた小規模事業所(共同作業所)が多数である。障害特性のため継続通所が難しい対象者が多く、また本人所得の低い方が多い。
しかし、それらの現実を無視したのが障害者自立支援法だった。
障害者福祉施策の発展過程を顧みると、1981年の国際障害者年が大きな契機となり、理念面も量的な面も飛躍的に発展した。しかし第二臨調答申以降、国の予算圧縮政策が始まる。
その後、構造改革時代の2003年、支援費制度が実施された。私が保健福祉局長に就任した際、同制度についてヒヤリングを受けた。素晴らしい制度だと思ったのを覚えている。市場主義が導入されたとはいえ、その自己選択という良い面が反映され、極めて利用しやすい制度だった。
だが実施後半年で国の予算が枯渇し、同制度は短期間で廃止。障害者自立支援法が作られ、障害者にとって非常に厳しい制度になった。
障害者自立支援法は京都市の伝統的な福祉の視点から見ると、障害のある人たちの生活を破壊しかねない欠陥を持っていた。
一つは、過重で不合理な経済的負担である。具体的には応益負担(定率負担)と、扶養義務者の所得合算を導入したこと。二つ目は、先に述べた障害特性を無視し、事業者への報酬を日割り計算にしたこと。 そして、障害の違いに対応できないサービス体系にされたことである。これは将来の介護保険制度との統合を意図した目的別・形態別の再編成だった。
このうち京都市は、主に経済的負担の緩和に向けた京都方式を実施。自己負担基準額を国のおおむね2分の1に減額し、所得階層を細分化して応能負担に近づけた。特に従来負担がなかった低所得階層・重度障害者への手当を重視した。福祉と医療サービスを複数利用した場合はそれぞれ別に請求されるが、京都市では所得階層ごとに自己負担合計額の上限を抑制する総合上限額制度を独自に導入した。これらにより、京都市はあらたに7億円の財源を投入することとなった。
独自制度創設の発端は自立支援法実施にあたっての厚労省の姿勢に対する疑問だった。当時の厚労省老健局長と主要な指定都市局長との懇談会の場で担当部長から「(財政事情から) 全体の枠は増えないので、新たに加わった精神障害者福祉の財源のために障害者施策全体を均さざるを得ない」と苦渋に満ちた発言がされたのである。その真摯な態度に勢いをそがれ、各局長からは「障害者の特性に対応したきめ細かな制度にしてほしい」と言うのが精一杯だった。それは京都市における2005年度予算に関する「市長復活折衝」の直前だった。
保健福祉局では市長復活の場で、すでに準備していた予算案を撤回し、新制度を創設したいと申し出た。
当時の2人の副市長は反対した。独自制度をつくれば国がペナルティーをかけてくるため、結局やり直しさせられる。2回苦労するだけのことだとの意見は、当時の状況を考えれば、誠にもっともなことであった。
しかし、桝本市長からは「2回苦労したいというなら、させてやれば良い」という答が伝えられたのである。これを「良いものなら採用される」と受け止めた我々は独自制度の設計に取り掛かった。
8月に素案ができた。そのとき私は職員にこう言った。「素晴らしい案だが、誰からも感謝されないと覚悟して進め」と。なぜなら、利用者にとってみれば、それでも負担は増えるのであり、市当局にすれば、財政負担が増えるのであり、国からはとんでもないとの批判がくるのである。
両副市長の警鐘を肝に銘じて慎重にペナルティー回避が進められた。当時、京都市会には「福祉に熱い自民党京都市議団」があった。意外なことに自民公明両党の紹介で障害者諸団体から保健福祉局に申し入れがされた。これによって市議会での壁はとれたと感じた。そして市長査定では「京都方式と呼ぶように」と承認された。
次の壁は府市協調のルールである。福祉分野では京都府と京都市間は、互いの予算を事前に説明するルールがあった。しかし京都方式については、知事の最終査定の日まで秘密にせざるを得なかった。
にもかかわらず京都府の山田知事はそれまでの府の予算案を白紙に戻し、市独自制度にあわせることを決断した。予算市会では、いよいよ国からのペナルティーが来るとの噂が走ったり、国の準備の遅れから金額を修正したりハプニングもあったが、表面的にはペナルティーもなく、無事に京都方式を立ち上げることができた。
健康危機管理 明確にされていた行政区保健所堅持方針
1996年7月の病原性大腸菌7月21日、京都市内 でO-157類似症状により成人男性が死亡。22日に「O-157の疑いが強い」との情報が入り、遺伝子検査による確定前であったにもかかわらず市長の決断で公表された。22日には京都市対策本部が設置された。市長は、全部局に対して「できることはすべてやれ」「予算に糸目はつけるな」と指示した。市立病院の専門医と全保健所長の24時間対応によって市民の不安は急速に沈静化した。
トップが信念を持ち決断したこと、それによって資源の集中投下がなされ、成果をあげた経験だと考えている。O-157への対応はその後の健康危機対応のモデルとなった。SARS、鳥インフルエンザ、農薬混入餃子事件などのその後の事案では行政区保健所の機動力と衛生公害研究所の24時間不眠不休の検査活動が威力を発揮し、市長の任期中、行政区保健所体制は堅持された。
注)文中引用のパネルはすべて当日講演時に折坂氏の使用されたものであり、氏の作成による。