奄美大島赴任記 その一 (2005・11~2009・1)  PDF

 奄美大島(以下、大島)の病院で産婦人科医が空席と知り、海を渡ることにした。大阪南港からフェリーで一晩、船内で泊まり翌日、夕刻、大島へ。今は亡き四駆のダイハツ、ラガーを友とし南の離島(鹿児島から400㎞南の沖合)で単身赴任、独り部長としての激務が待っていた。大島は奄美群島(大島、喜界島、徳之島、沖永良部島などの総称)のなかの最大の島でご存知の方もあると思うが1945年から8年ほど(日本返還は1953・12・25)米国の委任統治領であった。それでキリスト教の信者が1割ほどいてたしかに神社やお寺を見ることはなかったようだ。そして驚くことに鉄路がなく、フラットな土地が少なく私に与えられたマンションから病院までただ一本の道路しかなかった。そしてコバルトブルーの海を思い浮かべるが、大島は実は山国でありその山塊にトンネルを穿ちアクセスルートを確保しつづけるのだ。緯度からいえば熱帯モンスーンに位置するので激しい豪雨のあとはとんでもなく澄み切った青空を堪能できる。
 さて、仕事のこと、ここまで南下すると子どもへの態度が本土とはまるで異なり“子は宝なり”と変貌する。当時の病棟の若い看護師も6~7人ぐらいは生みたいよと当然のように宣言していた。少子高齢化が常識の本土とはえらい違いだ(現在は大島でもやはり産まなくなってきているようだが)。ただ、どんどん生んでもある年齢になると島を離れていくので実数はなかなか増えないのが痛いところだが。結婚も早くその分、リスキーな分娩が少なかったように記憶している。逆に私のライフワークである不妊治療の症例は島人口が5万ぐらいで少ないせいもあるのか3年半で90人弱と少なく出産と比べ受診の敷居が高そうであった。しかしながら、シマンチュ(1)の生活はストレスも少なく今の京都での難航を極める治療と比べると妊娠率も高かったような気がする。なんといっても仕事より生殖活動のほうが優先するというのが出生率全国ワースト2位の京都との大きな違いだろう。ただし、需要と供給はいつの時代でも解離するのが常で出生という貴重なイベントに対してそれをケアする態勢の貧弱さは悲しいほどだ。私が赴任したころも群島でお産に携われる産婦人科医はたったの3人、本来ならそのアクセスから派遣しやすい大学からもなかなか人を出してくれない。いきおい私のようなもの好きが世話をすることになる。

 (1)離島で生活する人への呼び名。愛を込めたニュアンスだろう

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