協会が企画しているフォーラム「政治は変えられる」(5月13日開催予定、7面に案内)で、慶應義塾大学経済学部教授の井手英策氏に「脱グローバリズムの潮流と課題—新しいルールを求めて —」と題した講演をお願いしている。ついては、井手氏のご紹介も兼ねて、16年11月の兵庫県保険医協会の政策研究会「日本の財政改革 成長依存社会からの脱却」講演録を転載する。
慶應義塾大学経済学部 井手英策 教授
【いでえいさく】1972年生。95年東京大学経済学部卒、2000年同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学、日本銀行金融研究所、東北学院大学、横浜国立大学にて奉職後、09年度より現職。2015年『経済の時代の終焉』で大佛次郎論壇賞受賞。
成長依存ではない社会をめざすべき
アベノミクスが機能していないことは皆分かっている。最も大きな問題は、それにも関わらず国民が支持していることだ。成長に依存しないと生きていけない社会では、成長させてくれると思う人を信じる以外に道はないからではないか。
だから、「脱成長」論とも異なる、成長に依存しなくてもよい社会の姿を対抗軸として打ち出していく政治が大事で、それこそがアベノミクスに対する一番の批判になる。
財政赤字の要因は社会保障ではなく税収
日本政府の債務残高は非常に大きい。
「支出をこれ以上増やすと、財政赤字が増えて大変なことになる」と批判している人は多いが、統計的に見ると政府の財政支出の規模と債務残高には関係がない(図1)。
また、統計的には労働者の中に占める公務員の割合と債務残高とは関係がない。因果関係はないが、日本・ギリシャ・ポルトガル・イタリアなど債務危機と言われる国は、他の国に比べてむしろ公務員は少ない。「財政赤字を減らすために公務員の人件費を削れ」と言われてきたが、全く根拠のない意見だ。
政府の財政支出や公務員数などを見ると、日本は相対的に小さな政府で、他国より無駄遣いは少ない。ますます小さな政府にすることで、本当に世界最高の借金を返せるのか、まじめに考えないといけない。
財政赤字の決定的要因は二つある。税収と公共事業だ。このうち、公共事業が大きく削られ、90年代後半以降、財政を規定しているのは税収である。「財政赤字は社会保障費の増加で増える」と思いがちだが、財政が赤字か黒字かということに社会保障が寄与する割合は小さく、本当に大きいのは税収だ。つまり、日本の財政赤字は、税収が足りないことが問題と考えるほうが正しい。
各国の税負担率を見ると、日本はOECD(経済協力開発機構)平均よりも低い。平均まで近づけるのに必要なお金は約20兆円だ。社会保険料の負担率を足しても、さらに消費税を12%にまで上げなければ平均にならない。
私たちは「財政支出の何が無駄か、誰が無駄遣いをしているか」ばかりを議論してきたが、正しい問いは「なぜ日本では、増税ができないのか」だろう。
なぜ日本では増税できないのか
「格差是正は政府の責任ですか?」という問いに対し、「政府の責任だ」「どちらかと言えば政府の責任だ」と答えた人の割合は、日本は下から6番目だ(図2)。また、「貧しい家庭の学生に経済的援助を与えることは政府の責任ではない」という問いに「そう思う」と答える日本人の割合は非常に高い。
このように、私たちは格差に関心のない社会をつくりだしている。
根底にあるのは「信頼」という問題だ。もし人間を信じていないなら、その人を助けようと思うだろうか。生活保護について、もし貧しい人を信じていなければ、「あいつらは昼間から酒を飲み、ギャンブルをするにちがいない。金を出すのはおかしい。働かせろ」となる。
人間を信じていなければ、政治家のことも信じないだろう。すると「お前ら無駄遣いをしている。増税の前に無駄をなくせ」と言う。
類推できるのは、日本人は人に対する信頼度が低いのだということだ。図3はISSP(国際社会調査プログラム)で「人間は信頼できる」と回答した人の割合だ。これを見ると、日本は下から3番目だ。日本は先進国の中では一番人を信頼していない国と言えるかもしれない。
この割合は、格差と統計的に有意に関係があり、「信頼できる」と答えた人の割合が多い「信頼社会」は格差が小さく、「信頼できない」と答えている社会では格差が大きい。これは他の統計でも同じだ。
「政府を信頼しますか」という問いに対しても「非常に」もしくは「かなり」と回答した人の割合も56カ国中42位だ。明らかに政府も信じていない。
人間も政府も信じていない社会を私たちは生きているのだ。
人間を信じていない割合と税収の少なさには、きれいな相関関係がある(図4)。要するに人間を信じない社会は税が取れない。貧しい人を信じていないならば、「そんな奴のために税を払うのはもったいない。働け」と論理的に言えばなってしまうわけだ。
「分断社会」日本
別の統計では、「どれぐらい自由を感じますか」という質問への肯定的な答えは58カ国中52番目、調査年度は違うが「自分の人生は自分で決められますか」という問いでは60カ国中59番目だ。
愛国心はどうか。「自国の戦争のために喜んで戦うか」という質問に「はい」と答えた人の割合は最下位だ。「自国に人権への敬意があるか」という質問では、52カ国中34番目だ。
こうしたデータから、「社会」という言葉が非常に軽く聞こえる。
私たちは平気で「日本社会」「日本国民」と言うが、人間が集まっているだけでは「社会」や「国民」とは言わない。ある一つの価値を分かち合ったときに初めてその集団は社会、国民になるのではないか。
ところが平等や自由、愛国心、人権など、人類がときには血を流し勝ち取ってきた、さまざまな価値を私たちは分かち合おうとはしていない。この集団を果たして社会と呼ぶのか。
私はこのように社会が社会たり得る価値を分かち合うことができなくなっていることを「分断社会」という言葉で表している。
「勤労国家」から「袋叩きの政治」へ
なぜこのような社会状況が生まれたのか?
私は日本の福祉国家のことを「勤労国家」と言っている。つまり勤労が前提になっている福祉国家だ。
「勤労」という言葉は戦争中に定着した。戦争中、「勤労動員」「勤労奉仕」などと言われ、多くの人びとが大変な目にあったので、普通、戦争が終われば「勤労」という言葉はなくすと思うが、日本人はなくさなかった。そして憲法27条には「勤労の義務」が盛り込まれた。このメンタリティがいかにも日本的だ。
戦後、「勤労国家」を作り上げたのは池田勇人だ。彼の著書『均衡財政』に「私たちに必要な政策は、一つは勤労所得者への(所得税)減税、もう一つは公共事業による勤労機会の保障」と書かれている。要するに、勤労した立派な民には税を還そう、そして社会保障は贅沢すぎるから公共事業で仕事の機会を与え、勤労させようということだ。勤労を終えた高齢者は立派なので報償が必要で、その報償が年金と医療だ。だから日本の社会保障は年金と医療がかなりの部分を占めている。一方、現役世代は自分で働いて何とかしろ、その上で勤労できない人たちだけは救済してやるという形の福祉国家が成立した。
その後、日本の貯蓄率は先進国最高になるが、理由は貯蓄しないと生きていけないからだ。だから「成長神話」なのだ。成長して貯蓄していかないと人間らしく生きていけない社会を、私たちはつくってしまった。
世帯所得は戦後ずっと増えつづけてきたが、97〜98年以降減少に転じている。この頃から正社員の数が減り、非正規雇用の数が増え、今では労働者の4割が非正規雇用となった。人件費の総額は90年代半ば頃で頭打ちになり、以後横ばいになった。
一方、98年を底に、企業の経常利益は上がっていき、経常利益は増えるが人件費が増えないという状況が始まった。
企業は、ずっと借り入れ超過だったが、97〜98年を境に貯蓄超過になった。戦後初のことで、それまで企業は借り入れをして設備投資していたが、内部留保で投資するようになり、投資のための資金を手元に残すために人件費を削った。この時期を境に家計部門の貯蓄が減ってきた。企業が人件費を削ったため、労働者が貯蓄できなくなったのだ。日本は「勤労国家」でありながら、働いても貯蓄ができないような状況になってしまっている。これが日本社会の閉塞状況の最たる理由だ。
今一番、右傾化しているのは、中間層、とりわけアッパーミドルだ。この層は、年金こそもらえども、将来に対して非常に強い不安をもっているのだろう。
ここから出てくるのは私の言葉でいえば「袋叩きの政治」だ。「既得権者」を次々に暴き、レッテル貼り・バッシングを繰り返す。「地方の公共事業は無駄だ」と都市の住民は怒り狂い、「公務員の人件費は高すぎる」「生活保護ももらいすぎだ」と叩く。「医療費も高すぎる」と、医師や医療従事者にレッテルを貼って叩く。さらに、負担も他人に押しつける。昔は「お年寄りは大事にしなさい」というのは当たり前だったが、今は「年寄りに税をかけることが公平だ」という。
人に負担を押しつけ、自分の既得権を守るために、他人をバッシングする政治状況になっている。根底には働かないと食っていけない社会、働いても働いても食えない状況がある。
北欧諸国はなぜ格差が小さいか?
「貧しい人を助ける」と聞くと、多くの人の頭に浮かぶのは、貧しい人にお金をあげることではないだろうか。しかし、統計では、貧しい人にだけ給付をしている社会は、実は格差が大きな社会ということが分かる(図5)。自分たちは給付が受けられないから中間層や富裕層が怒り、そうした層から税がとれなくなってしまい、分配するお金がなく、格差を是正することができなくなるのだ。
また、給付が貧しい人に集中している社会は、再分配政策への支持率が低い(図6)。貧しい人に給付が集中している国は、多くの人が格差是正に関心をもっていると思いがちだが、事実は違う。それどころか北欧諸国では、確かに貧しい人に給付が集中しているが、再分配に対する支持は決して高くない。なぜだろうか。
質問を少し変えてみると明らかになる。北欧の国々では、「高齢者に対する政策は政府の責任ではない」「失業者に対する政策は政府の責任ではない」との問いに、「政府の責任である」という答えが増える。つまり「貧しい人、困っている人を助けてやろう」というと、北欧の人も嫌がる。しかし、失業者には自分もなる可能性があるし、高齢者には誰もがなる。誰かの利益にしかならないことには否定的だが、自分も含めたみんなの利益だったらいいということだ。北欧諸国は優しく、理念をもったすぐれた人がいて、貧しい人を大事していると思っていたがとんでもない。実は、むしろ利に聡い国民だった。
しかし、日本は違う。高齢者や失業者も、ただの既得権者になってしまっている。
所得制限なしの社会保障給付に
日本でも、「今の給付水準を維持できるならもう少し増税してもいい」あるいは「もっとサービスが豊かになるなら増税してもいい」と答えた人の割合は5割を超えている。
だから、教育、医療、住宅、幼児教育・保育、介護を皆に給付すればいい。お金持ちにも給付しようというのが私の提案だ。
私たちは貧しい人を助けようと思うと、貧しい人だけにサービスを提供しようとする。それが、「所得制限」だ。乳幼児医療費助成制度でも所得制限がある自治体は多い。
しかし、全員に給付しても格差は解消できる。
たとえば、図7のように、当初の所得が200万円と2000万円だった場合、格差は10倍だ。それぞれに20%ずつ課税すると、それぞれの税引き後所得は160万円と1600万円になる。格差はまだ10倍だ。税収440万円のうち、40万円を財政赤字の穴埋めに使うとし、残りの400万円を所得で区別せずに一律200万円分としてサービスを給付する。すると、所得200万円だった人は所得360万円に、2000万円だった人は1800万円となり、格差は5倍に縮まる。
大切なことは、貧しい人も納税者になり、富裕層も受益者になる中で格差が小さくできるということだ。消費税は逆進性があるから問題といわれるが、給付がきちんと行われれば問題はない。
救済型の困っている人を助ける再分配は国家の責任として行う。地方レベルでは、命ではなく生活の保障をする。住民にとって必要なものは住民みんなで負担しあい、全ての住民に給付するというのが私の構想だ。地方レベルでは貧しい層も税を負担し、富裕層も給付を受ける。そのときに初めて貧しい層への寛容さが育まれていき、そうなれば国レベルで貧困層に集中した対策を行おうという合意が整う。
しかし、誤解しないでほしいが、累進課税をなくすなどとはまったく思っていない。富裕層に高い税率の税をかけ、財産を多く持っている層には相続税をかけるべきだ。法人に対しても儲かっている法人には法人税をきちんとかける。一方で、貧しい人に貧困対策として現金給付をすることも問題はない。
「品位ある保障」を
私のモデルでは、国は生存権の保障を担うのだから、貧困層に対して現金給付をし、財源は累進的な税で行うが、現在のように「最低限の保障」という言葉は絶対に使うべきではない。「品位ある保障」と言わなければならない。そうしないと保守層が「最低限」という言葉を再定義し、どんどん切り下げていく。
地方レベルではさまざまなサービスを全住民に提供する。その際、最も大切なサービスは幼少期におけるものだ。どんな家に生まれ、どんな才能を持っているかは、全て運だ。運で自分の一生が決まるのは、「かわいそう」ではなく「理不尽」だ。その「理不尽」とは闘わなければならない。運によって不平等な取り扱いを受けることがあるならば、そこを徹底的に正さなければならない。
その上で、人々には競争のチャンスが与えられ、競争の結果、もし格差が生まれたとしても、それは許容できる格差ではないか。ただ、競争のプロセスでも、運悪く失敗する人がいる。そうした人に対しては、「最低限の保障」ではなく、「品位ある保障」によって、再チャレンジできるようにしなければならない。こうした中で、自分の人生を自分で決めることができ、自由を得ることができるのではないか。
幼少期における社会保障の充実、特に就学前教育の無償化は、結果的に経済も成長させる。OECDやIMF、世界銀行はジニ係数が3%悪化すると、つまり貧しい人が増えると、25年にわたって成長率が0・35%下がると明らかにした。子どもたちが学校に行けなくなり、同時に女性も就労できなくなるからだ。子どもを学校に行かせて教育水準を高めるとともに、才能ある女性が就労することで経済は成長する。
社会保障に使われない消費税増税分
2014年に消費税を5%から8%に増税したが、増税で得られた財源5兆円のうち、社会保障の充実に使われたのは5000億円で、残り9割は債務の返済に充てられている。
政府は消費税を10%に引き上げるというが、たとえば5%から10%に引き上げて得られる財源のせめて半分を社会保障に回すと、まず幼稚園と保育園が無償化できる。すべての大学の学費も無料化できる。介護保険の1割負担もなくすことができる。これが消費税2・5%増税という言葉の意味だ。保育園から大学まですべてただになって、介護の利用料もただになる。それでも、100円のジュースが105円になるのは嫌だと言うだろうか。
ところが政府は、3%も消費税を引き上げたのに、その9割を債務の返済に使ってしまったので、ほとんどの人に受益感がない。このやり方は明らかに間違っている。だから、今後10%に消費税を引き上げるのに際し、全て教育や社会保障の充実に振り向けるという法案をつくって提案すべきだ。
そんなに社会保障給付を充実させると、財政破綻すると思われるかもしれない。しかし、すでに述べたように、国が支出を増やしたからと言って、政府債務が増えるかどうかは分からない。さらに、社会保障給付を広げていけば、税収は増加する。
多くの人が給付を受けられる国は高い税収のある国で、一部の人しか給付を受けられない国は税収が少ない国である。これは因果関係ではないので、税収が多いから幅広い給付ができ、税収が少ないから一部の人にしか給付ができないという反論があるかもしれない。しかし、その反論は歴史的にみれば間違いだということができる。なぜなら、ヨーロッパの社会保障は、少しずつ給付を拡大し、少しずつ増税を行うということを積み重ねてきた歴史がある。その結果が豊かな給付と高い税収だ。
日本は社会保障給付を拡大するために、少しずつ増税をするという努力をしてこなかった。むしろ逆で、給付を縮小して歳出を削って財政再建を行おうとしてきた。しかし、この手法は20年間続いているが、一度も成功していない。財政再建の路線が戦略的に違っていたのだ。
人間の尊厳守る相利共生社会を
究極的には、生活保護をなくしたい。生活保護は受ける人にとって、非常に大きな屈辱となっているからだ。私たちは生活保護受給者を「助けてやっている」と思ってしまう。
もし医療費窓口負担がなくなれば、医療扶助など不要となり、これだけで生活保護費の4割がなくなる。介護や教育も無償化していけば、生活保護費で残るのは、生きていくために食事をするお金、生活費だけになる。
これを実現するのが、人間の必要を満たしていく「必要の政治」だ。
成長に依存し、自分自身で働いてお金を貯めて、なんとか食べていく社会。そしてお年寄りと現役世代が負担と給付をめぐっていがみ合うような社会。そんな自己責任の社会ではなくて、お互いの利益になることを考える社会をつくるべきだ。
よく共生という言葉を使うが、片方が受益者で、片方が負担者になる関係は共生ではなく寄生だ。そうではなく相利共生、お互いに利益がある中で人間が共に生きていくということが大切だ。そして同時に私たちが目的だと思っていた財政再建であれ、経済成長であれ、格差是正であれ、それらを目的ではなく、予想せぬ結果として次々に生み出していくような創発型の社会に変えていくことが必要なのではないか。
図1 一般政府支出と公的債務残高の関係
図2 格差是正への関心は薄い
図3 「人びとは信頼できる?注意深く振舞う?」信頼できるという回答の割合
図4 不信社会=税の取れない社会
図5 弱者への「善意」は格差の原因かもしれない
図6 低所得層への給付は再分配批判を強める
図7 低所得層が負担し富裕層に配分しても格差は縮小