昭和26年前後から父の医院(自宅でもあります)に、日曜日には進駐軍の兵士が手みやげを持って訪れるようになりました。当時、今の京都会館の辺りは進駐軍に接収され軍の施設になっていました。進駐軍の撤退後、しばらくは誰でも覗ける空家状態でした。覗いてみて生まれて初めて暖房用のスチーム(蒸気暖房)なるものを見ました。
また、当時は東山仁王門にあった「家政学園(今の文教学園)」も接収されたのか進駐軍のランドリー(洗濯場)になっており、近くを通ると排水路には石鹸の良い匂いと湯気とがただよっていました。その石鹸水で洗濯をする主婦の姿もよく見かけたものです。石鹸すら日本人は入手しにくかった時代でしたから生活の工夫だったのでしょう。
うちを訪れる米兵が手みやげに石鹸をくれたことがあります。それは固形石鹸ではなく、フレーク状の石鹸でした(粉石鹸の一種)。当時は米国で電気洗濯機が普及しており、この石鹸を使っていたのでしょう。珍しくて今も印象に残っています。我が家に電気洗濯機が入ったのはもっと後でしたが、米兵は医師なんだから電気洗濯機くらいは持っているだろうと思ったのかもしれません。
初めて米国の軍人が数人の集団となって我が家(医院)を訪れた時には、母は何事かと思ったそうです。父が出て行って話をすると、彼らが来た理由は少しなりとも日本を知りたいということとわかりました。医師なら多少とも英語で話が通じるだろうと思ってうちにやって来たようです。実際、それからは時々、日曜日になると医院の待合室が談話室になっていました。
何度目かの訪問の際に彼らが手みやげに持ってきたものはアイスクリームでした。季節は冬! 暖房は火鉢しかなく、せいぜい掘炬燵だった時代です。保存しようにも電気冷蔵庫なんかありません。おいしかったけれど寒くて食べ切れなかったことを憶えています。
進駐軍兵士の乱暴は当事かなり心配されていたようですが、我が家に来ていた方達は礼儀正しかったそうです。家の前の進駐軍のバス停でもトラブルがあったという話は聞きませんでした。母は当初心配していたそうですが、後に父が職業軍人ではなかったので、知識に対する希望が大きかったのだろうと言っていたそうです。
さて、帰国が近くなった兵士達の中には、米国に持って帰りたいものがあるのでどこで買うのが良いのか相談したいということもあったようです。後で彼らが何を買ったのかを聞いたのですが、父はカメラや顕微鏡の購入を依頼されたそうです。当時から日本の光学機器は優秀で、米兵が帰国に際して持ち帰ることは多かったそうです。兵士達が顕微鏡を買ってどうするのかと思ったら米国で売れるからだとのこと。朝鮮戦争時には米国の報道陣はニコンのカメラを使い、評判が高かったそうです。
(山科・山田一雄)