リハビリテーションと介護保険
2000年に介護保険がスタートして、“リハビリテーション”が普及した。介護保険はリハビリテーション前置主義が言われ、介護保険サービスを利用する前にしっかりリハビリをして介護の手間を少しでも軽減する、あくまで自立を目指して回復を図ることが大切とされた。
介護保険開始前頃から、長く通院されていた高齢患者さんたちから「介護保険が始まったら、もう先生とこには来れへんのやろか」という心配の声が上がった。
私たちは1984年に開業したのだが、今から振り返ればこの年は、「医療費亡国論」を唱えたと言われる吉村仁氏が、厚生省保険局長として医療保険の大改革(健保改正)を行った年だった。今に続く医療費抑制策が具現化した年なのだ。73年の田中内閣による「老人医療費・無料化」「年金給付費増大」などが実現し、革新首長があちこちに誕生していた明るい時代に学生生活を送った。80年に夫がワシントン大学に職を得て、アメリカ・セントルイスに住んだ時にも車などの大きな買い物の生活場面で、日本人は世界第2位の経済大国の人という敬意を払われたと思う。
医療政策がマイナスに舵を切ったとは言え、医療の現場はまだまだ、いけいけどんどんの楽しい成長の勢いがあった。
しかし、介護保険は重大問題であった。事の大切さは分かるので反対はできないが、医師の誰もが違和感を抱いていた。西陣医師会でも激しい議論が繰り返された。年寄りが医療機関の待合室をサロン化していると喧伝され、医療費の無駄遣い― 亡国論に繋がった。介護保険の導入に際して、西陣医師会担当副会長として新法の定着に向けてさまざまな取り組みを行った中で、「うちが事業所を立ち上げよう」と決意し、医療保険の老人デイケアをオープンした。毎日のように受診されていた方数人でのスタートだった。ところが、4月に介護保険制度が実施されると、医療保険の「老人デイケア」は介護保険の「通所リハビリテーション」に移行した。私は所長としてリハビリテーション医学を学ばねばならない。母校・川崎医科大学のリハ科教授の椿原先生に頼み込み、時間を工面しては倉敷に通う生活が始まった。教授の横で診療を見学し、回診に同行し、いろいろなカンファレンスに出席し、少しでも時間があれば図書館に入り浸り、文献あさり、コピーも取り放題と、なんと有り難い配慮であったことか。楽しかった。私は結婚してすぐに長男を授かったので、研修期間は子どもを抱えて奮闘しなければならなかった。静かな図書室で何の邪魔もなく本を読める幸せは格別だった。朝6時頃に新幹線に乗ると、9時の外来に間に合う。帰りも夕方6時頃に岡山を出るのだが、この車両内は独特だった。唐揚げ、コロッケ、天ぷら等の匂いと缶ビールを空けるプシューという音。全車両おっちゃんばっかりだった。単身赴任のお父さんたちが我が家に帰還するところなのだろう。
私も頑張り、日本リハビリテーション医学会認定臨床医の試験に合格することができた。