鈍考急考7 対立と排除を生まないために 原 昌平 (ジャーナリスト)  PDF

 3月初め、ある全国紙の新型コロナに関する記事の書き方が気になり、電話とメールで意見を伝えたことがある。
 一面トップで、人の密集を避けるよう安倍首相が対策本部の会合で国民に求めたという記事。「1人が12人に感染させた例があった」「スポーツジムの事例では1人が9人に感染を広げていた」といった記述がいくつもあった。
 端的に伝えたい気持ちはわかるが、「感染させた」「うつした」などと、人間を主語にして、意思を伴う能動態や使役形で書くのはまずい。
 故意でないかぎり、「感染した」「うつった」というふうに、客観的現象として病気を主語にして書くべきだろう。
 細かな言い回しの違いではあるが、感染させるという表現は、加害者と被害者という意識を生む。被害者は直ちに加害者になりうるので、不幸にも病気になった人が攻撃される。対立の構図は分断、憎悪、排斥につながる。
 ネット上では、発症した有名人やクラスターに関係した人を責める言動が飛び交っている。実生活でも、医療従事者とその家族が嫌がられる、他の地域から来た人が事情と関係なく白い目で見られるといった事態が生じている。
 見えない病原体、死ぬかもしれない病気が怖いのは当然で、自己防衛的な反応はDNAに組み込まれた本能とも言える。他者への攻撃は不安と恐怖の表れかもしれない。
 それだけに、相当に意識的に取り組まないと、いがみ合いが増幅する。一部の人をなじるのは団結ではない。感染者が非難・差別されたら、怖くて受診できず、よけいに感染が広がってしまう。
 報道、行政、医療、教育、福祉などの関係者は、表現にデリケートでありたい。
 最も重要なのは政治リーダーの言葉だ。対策への協力を求めるだけでなく、対立や差別を防ぐ語りかけを積極的に何回も行う必要がある。
 その点ではメルケル独首相の評価が高い。トランプ米大統領、そして安倍首相、麻生副総理はどうだろうか。
 公衆衛生の権力的な側面にも注意を払っておきたい。
 歴史的には天然痘、ペスト、コレラ、結核、インフルエンザなどが人間の移動と交流、工業化、人口集中、貧困などを背景に猛威をふるった。
 公衆衛生という科学の登場、栄養状態の向上、ワクチン、治療薬などで克服されてきた病気もある。
 だが、ハンセン病では感染リスクが解消してからも隔離が続けられた。HIVが出現すると感染者が差別排斥された。感染症ではないが、優生保護法による不妊強制、精神障害者の隔離収容も、健康向上や社会防衛の意識から、医師と衛生行政が主導した。
 ナチスは国民の健康向上に力を入れ、その一環として多数の障害者を抹殺した。
 公衆衛生の役割と功績は大きいが、管理統制の欲求がつきまとい、一歩間違えると排除をもたらすこともある。
 社会の状況のコントロールが欠かせないとしても、一部の人を犠牲にしないという理念をしっかり掲げたい。
 人類が「共同体」という意識を持てるかどうかが試されているのかもしれない。

ページの先頭へ