見つめ直そうWork Health(27)
吉中 丈志(中京西部)
あさくら診療所
10年余にわたる二硫化炭素中毒患者と家族のたたかいはユニチカとの和解によって区切りをつけることができた。患者、家族、支援者の人たちが集まって祝賀会が行われた。一人ひとりがエピソードを話した。つらかった過去の彩りを取り戻すことができた。九州、中国、四国、東海、関東などからも支援してきた人たちの温かい声が寄せられた。患者と家族を中心にした連帯が広がり、山城地域で人の輪が強まった。今でいうsolidarity for change、私たちはこれを見えない建設と呼んだ。
実は見える建設もあった。韓国のように自分たちの病院がほしいという声が運動の過程で上がった。「病院にかかっても『お前休みたいんか』と話を聞いてくれない。病気の原因も治療方針も教えてくれない。また、他の病院を紹介してもらうのに、お金を渡して紹介してもらった人さえいます」、これは二硫化炭素中毒患者を守る会の河合敏彦さんの経験。「健診でひっかかって検査入院を繰り返し、結局異常なしと言われ続けた」と患者家族の裕谷知須子さんは振り返る。診療所という見える建設は裕谷さんにとって、「夫は生きる意欲や楽しみがなくなってきている。診療所ができたらリハビリに通っていろんな患者さんと出会ったり、話をしたりして生きがいをみつけてほしい」という希望になった。
1994年9月に医療生協あさくら診療所が開設され希望が現実のものになった。素人が診療所を作ることは容易でない。しかし、二硫化炭素中毒症に対するたたかいを共にした経験が、力を合わせればきっと実現できるという確信を多くの人のこころに生み出した。
市民参加ということで医療生協をつくることになった。地域の人たちが出資金を出すことになり1500万円が集まった。医師や看護師など専門職が必要だし建設をすすめていく要の事務職がいなくては進まない。一貫して運動を支援した京都民医連に協力を求めて実現した。師長予定者の村上栄子看護師(京都民医連中央病院師長、当時)は組合員さんのお宅で開かれる医療懇談会に何度も出かけた。「肩こりや腰痛を治すために」というレジメを配って知識を伝え、参加者みんなで肩こり・腰痛体操をするなどして診療所に対する要望を聞いて回った。
生協の名称は「やましろ健康医療生協」と決めた。健康を目的に組合員をできるだけ幅広く募る方針であった。初代理事長は立命館大学産業社会学部の奥田修三教授であった。当初から運動に携わった行松龍美君(既出・連載「第10回支えた人たち」)が専務となった。3000人の組合員でスタートすることができた。宇治市大久保町に土地を確保し地域にちなんで「あさくら診療所」と命名した。池野文昭先生(京都民医連第二中央病院、当時)が初代所長に就任した。現在の河本所長は三代目に当たり、地区医師会の理事も務めている。
宇治から出た戦前の代議士山本宣治は右翼テロによって殺された。「労働者・農民の病院をつくれ」という運動がこれを機に起きる。65年前のことだ。あさくら診療所によってその精神が現代によみがえったともいえる。