見つめ直そうWork Health(26)  PDF

見つめ直そうWork Health(26)

吉中 丈志(中京西部)

患者の声を受け止めた司法

 ユニチカ宇治工場で起きた二硫化炭素中毒症の裁判は1997年5月30日に被告であるユニチカと和解が成立して終了した。原告(永富稔・59歳、中村勇・57歳、祐谷保・64歳、故藤田元次・死亡時61歳、福垣利夫・61歳)らが二硫化炭素中毒症として労災認定を受けたことを被告ユニチカは深刻に受け止めるという内容であった。和解条項は、会社が(1)原告5人に遺憾の意を表明、(2)解決金1億4600万円の支払い、(3)治療のための協力、などからなっている。

 裁判ではユニチカ宇治工場の暴露レベルが高いことが明らかになった。ひとつは大阪大学医学部衛生学教室の後藤稠教授(当時)が熊本地裁(八代興人の裁判)で行った証言である。教授は専門家として全国のレーヨン工場の紡糸現場で二硫化炭素濃度を測定したデータを豊富に収集されていた。それによればユニチカ宇治工場ではほかの工場に比べて二硫化炭素濃度が高かったと述べられたのである。もうひとつは労災認定後の労働省(当時)が実施した立ち入り調査の結果である。その際に測定された二硫化炭素濃度は相当に高く、それまでユニチカが化繊協会に提出していた測定値と大きな隔たりがあったのである。

 また、裁判長による現場検証も大きな決め手になった。現場検証で測定された濃度が従来の会社測定値よりも格段に低かったのだ。この不自然さは工場による過剰な事前対策を示すに充分であり、二硫化炭素ガスに対する対策がずさんであったことをかえって印象付ける結果になった。逆にいえば二硫化炭素ガス対策は可能であって、それが実施されていなかったことを意味していた。

 私は1996年5月23日に京都地裁の第43回口頭弁論で証言した。古い建物にあった大法廷だったような気がする。「ユニチカで起きた慢性二硫化炭素中毒について」という陳述書を提出した。元ユニチカ病院の院長から5人の原告の二硫化炭素中毒症という診断に対して反論が出されていた。遺伝歴があるため普通の脳卒中だとか、網膜の微小血管瘤がないから中毒とは考えられないなどとしたものだった。患者を診察したうえでの真摯な検証がみられない。まるでいちゃもんをつけるだけの反論であったので、産業衛生の専門家らしく少しは反省しろと言わんばかりの陳述書原稿を書いた。弁護士からちょっときつすぎるので裁判長の心証がよくないかもしれない、修正してくださいと言われ苦笑したことを思い出す。

 1997年3月には原告を代表して藤田元次さんの妻、露子さんが最後に陳述し裁判結審となった。5月30日に和解を成立させることによって裁判の長期化を回避することになり終結したというわけである。京都新聞は「10年ぶりの和解成立」と報じた。中村勇さんの妻静枝さんは「主人は3年前に倒れ、植物状態で胃に穴を開けて栄養を取っている状態。元気なうちに解決してやりたかった。会社はもっと早く和解に応じて欲しかった」(洛南タイムス 同年6月3日)と述べている。

 長い裁判を原告らは頑張りぬいた。口頭弁論は54回に及んだ。裁判長はユニチカ宇治工場の検証や入院中の原告に対する証人調べも行った。労働組合や市民、多くの人たちが原告と家族を支えた。人々の記憶に残る10年であった。

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