続・記者の視点(53)
社会運動がもたらした「自己効力感」
読売新聞大阪本社編集委員 原 昌平
世の中の動向は、けっこう急速に変わるものだ。この数か月、それを実感した。
集団的自衛権の行使を認める法制が成立したのは、安全保障政策の面でも憲法との関係でも大きなできごとだが、それに対する反対運動が劇的に高まったのも、歴史的なできごとである。
デモやパレードなどの街頭行動は、60年安保以来と言われる規模で全国的に繰り返された。法律家、学者、大学関係者などの声明も相次いだ。
戦争と平和というテーマに加え、内閣や国会が憲法の規定を踏み越える解釈をしてよいのかという立憲主義の問題が重なったことが、関心と危機意識を高めたのだろう。
国民主権、民主主義に関する人々の認識はかなり深まった。結果はともかく、自分たちが社会を動かせるという「自己効力感」を相当数の人々が持った意味は大きい。
なかでも学生・若者が街頭行動をリードしたのは重要な社会的異変だ。政治に無関心でおとなしいという20年以上にわたるイメージを覆した。
なぜ彼らが前面に出てきたのか。個々人の動機は素朴な危機感だろう。自分たちが戦場に駆り出されるかも、という不安もあるだろう。学生・若者の多くが経済的に苦しく、レールに乗らないと将来、まともな生活を送れないという窮屈な日常へのフラストレーションも、意識しない底流にあるかもしれない。
若者に限らず、全国で延べ数百万人以上とみられる人々が何らかの行動に参加したことも、重要な異変だ。
ラップ調のコール、思い思いのボードといった運動スタイルは、福島原発災害後の反原発運動から広がったものだが、そうしたスタイル以上に大きな要因は、組織色のない個人参加の運動という点にあると思う。組織ではない「運動」だからこそ、数多くの人々が加わったのではないか。
労働組合や各種団体をはじめ、組織による運動の役割は大きいが、そこには様々な潮流・色合いがある。運動に加わることが、組織にかかわること、色がつくことに連動しがちだ。それがかえって社会運動への幅広い人々の参加を妨げてきたのではないか。
純粋な運動という形が、いろいろな潮流の事実上の共闘をもたらし、個人が参加するときの心理的な壁を崩したことは、今後の社会運動への重要な示唆になる。
今回の動きはもともと、憲法を守れ、平和を守れという、保守層の一部を含めた「守りの運動」だったが、やがて「安倍は辞めろ」「野党はがんばれ」という政治的コールになった。国会で主な野党が共闘したのも、国会外の運動の高揚が大きい。
社会運動が政党を引っ張り、連携させるという新しい関係性は、今後の政治・選挙を左右する可能性がある。
注目したいのは社会保障、医療、労働、経済、税制といった分野で、強力な社会運動が生まれるかどうかだ。内政の中心課題である民生・経済の領域に波及すれば、政治と社会の転換につながる可能性を持つ。多くの人にかかわるテーマ設定がカギになる。