特集(1)地域紹介シリーズ12 亀岡歳時記  PDF

特集(1)地域紹介シリーズ12 亀岡歳時記

明智家家紋でも使用されている桔梗の花(谷性寺)

大槻秧司氏
上原久和氏
森戸俊典氏
加藤啓一郎氏(司会)
佐藤 隆氏
垣田さち子理事長(オブザーバー)

 地域紹介シリーズ第12弾となる「亀岡」座談会を、亀岡市の田中源太郎翁旧邸である楽々荘で開催。出席者は亀岡市医師会会長の加藤啓一郎氏、副会長の森戸俊典氏、大槻秧司氏、佐藤隆氏、上原久和氏で、オブザーバーとして垣田さち子理事長が参加。亀岡市の歴史や文化、また地域医療の移り変わりと現状を語っていただいた。

第1部 受け継がれてきた伝統の祭 交通の要衝「亀岡」とは

霧の亀岡

 加藤 私は京都市内、丹波口の近くの生まれで、23年前に亀岡に移り住み開業しました。京都の人間から見ると、亀岡は遠いところというイメージがあります。「秘境だ」とまでおっしゃる方もいます(笑)。昔なら、京都市内から亀岡に行くのは一日仕事でしたね。それが今は京都駅から20分で行けます。先生方の若い頃、亀岡はどんな街だったのでしょうか。

 大槻 今日、亀岡盆地と呼ばれている地形は、200万〜500万年前くらいに地殻変動でできたそうです。その数万年後、水がたまり湖、沼地となっていたところ、伝説によると、大国主命をはじめその他の神様たちがここを開削して肥沃な土地にし、農業を振興したそうです。この湖には赤い波が立っていたということで、丹波と呼ばれるようになったという説もあるようです。

 保津峡の入り口に請田神社、上矢田地区に鍬山神社があり、開削された神様を祀ってあります。16世紀に、明智光秀がこの地で城を築き、亀山城と名付けました。「亀山」という地名はそれ以前の古文書には出てこないそうです。

 明治維新後、伊勢の亀山と紛らわしいため、丹波の亀山は亀岡になりました。当地は譜代の大名で、明治政府に対し弱かったからと言われています。

 亀岡はとても霧の多いところです。兵庫県朝来市の竹田城は「日本のマチュピチュ」と言われていますが、亀岡はそこよりもずっと霧が多いと思います。連れ合いは「霧で洗濯物が乾かへん」と、文句を言っていました(笑)。

 亀岡には、ゆかりの先人を顕彰する会が五つほどあります。明智光秀、「石門心学」で最近再評価されている江戸時代思想家の石田梅岩、絵師の円山応挙、大本教の出口王仁三郎、立命館大学の創立者で西園寺公望の秘書も務めていた中川小十郎の各顕彰会です。光秀以外は、いずれも亀岡生まれです。

 医療面で言うと、史実でははっきりしないんですが、平安時代の医家である丹波康頼が亀岡の生まれであるという説があります。日本最古の医学書といわれる『医心方』を書いた人です。市の南部の医王谷で薬草を育てていたとされています。日本で初の人体解剖を行った山脇東洋も、亀岡生まれと言われています。

 上原 私の小学校の時の遠足の行き先が、東別院の石田梅岩生誕の地ということもありました。石田梅岩がどういう人なのかよく知らなかったのですが(笑)。

 垣田 さすが亀岡ですね。小学校で石田梅岩のことを教えているなんて。そのうちNHKで取り上げられるのではないですか。

 加藤 梅岩の方ですか。亀岡は、光秀を取り上げてもらおうとロビー活動をしているんですが(笑)。

 上原 亀岡は都のすぐ近くで、尊氏にしても光秀にしても、あるいは義経も一の谷の合戦に向かうときに亀岡を通っているなど、山を挟んで都の隣という立地の特性から、様々な歴史上の人物が活躍したという逸話が残っている地域だと思います。

 大槻 1606年に豪商の角倉了以が保津川の改修工事を行い、舟で亀岡から京都へ生産物を運べるようにしました。長く輸送は水運だったのですが、鉄道やトンネルができてくると、水運に代わり観光の保津川下りが始まったのです。

 上原 現在トロッコ列車が通っている旧山陰線の線路は、地元出身の衆議院議員の田中源太郎さんらが発起人となって鉄道会社をつくり、1900(明治33)年に京都から園部間が開通しています。志賀直哉の『城の崎にて』の中にも、山陰線を通って城崎に行ったという記述があります。

 佐藤 亀岡は「トンネルを抜けるとそこは霧だった」(笑)というイメージで、いかにも不便なところと思われていますが、亀岡は山陰地方へ行く中間地であり、保津川、桂川を通っていろんな物資を京都に運んだ運送の中心地として、歴史的にも大事な役割を果たしていた地域だったと思います。

 垣田 いつも曇りがちなので住民には喘息の人が多いと聞いていましたが、実際はどうなんですか。

 大槻 結核も多かったですね。

 佐藤 東別院のゴルフ場に行く途中までは、ものすごく深い霧なんです。ところが、山頂に着く頃にはパッと晴れているんですね。下を見ると雲海が広がっている。雲の上に立っているようで、よい気持ちです。

 上原 診察しながら「今日は霧ですねえ」と患者さんと話していると、東別院、西別院から来られている患者さんから、「いやうちではカラッと晴れています」という話はよく聞きます。同じ亀岡でも気候の幅はかなり広いんです。

亀岡祭と佐伯灯籠祭

 加藤 亀岡には伝統的なお祭がいろいろあります。上原先生は亀岡祭に、佐藤先生は佐伯灯籠祭にそれぞれかかわっておられるのですね。

 上原 亀岡市はちょうど60年前の1955年、一つの町と15の村が大合併して市となりました。その一つの町である旧亀岡町地域で毎年10月に行われているのが、京都府登録の無形民俗文化財である亀岡祭(鍬山神社秋季大祭)です。さきほど大槻先生が述べられたように、かつて出雲の神々が保津峡を開削して亀岡盆地を拓いたとされているのですが、鍬山神社は709(和銅2)年に大国主命を祀り建立されました。

 戦乱の時代には、神社はかなり荒廃していたようですが、江戸時代に入り太平の世になると、祭は現在の形に近づいたようです。

 1700年代中盤から1800年ごろにかけて、現在の11基の山鉾、8基の「鉾」と3基の「山」が揃いました。「鉾」は、車輪が付いていてお囃子をする形態の曳山で、ご神体をお飾りして人が乗らない形態の昇山を「山」と言います。本祭では城下町の通りを山と鉾が巡行し、年々多くの観光客が訪れるお祭になっています。

 私は八幡山鉾を出している鉾町の出身ですが、町内の子どもは小学3、4年くらいになると、鉦の稽古を始め、6年生になると太鼓を叩くようになります。私も子どもの頃から鉾に乗って、お囃子の一員として祭に参加していました。医院継承のため鉾町に戻ってきましたが、娘もお囃子として鉾に上がるようになり、人手不足ということで、私もお囃子の笛を吹くようなことをやっています。

 垣田 いったん下火になっていた祭が復活したのは、市外に出たみなさんが帰ってくるようになったからですか。

 上原 歴史的に価値のあるものなので保存しようという機運が、ある時期から高まってきたということでしょうね。山鉾連合会が50数年前に設立されて、以後年々祭の復元・復興が始まった。今は行政も観光資源として売り出していこうという狙いがあり、各地に出向いてPRを派手にしています。しかし一方で、祭をやる方は人手不足なので、今後どうなっていくのか、悩ましいところです。

 加藤 京都の祇園祭は大きくなりすぎて、全国規模になったことで情緒が失われてしまった印象がありますね。それに比べると、亀岡祭は本当に情緒があって、しかも気候的にもちょうどよい時期なのでとてもよい祭になっていると思います。

 佐藤先生、佐伯灯籠はどうでしょうか。

 佐藤 亀岡祭は旧亀岡町のお祭ですが、その他各旧村でもそれぞれお祭があります。中でも佐伯灯籠祭が有名で、ここでは人形浄瑠璃が演じられます。

 709(和銅2)年創建の田野神社は、時の朝廷や庶民から非常に崇敬されており、社史などでは1229(寛喜元)年、広幡大納言が勅使で来られたときに、5基の灯籠を下賜されたとあります。もともと仏前にお供えするものだった灯籠も、当時の公家社会では盂蘭盆の贈答用に作られた特殊な風流灯籠があり、その影響で灯籠の下賜も盂蘭盆の旧7月になったのではというのは、少し思いすぎでしょうか。

 佐伯灯籠と名付けられた5基の灯籠は、その年の豊作を予祝した1年間の農事をあらわした風流灯籠で、毎年、神社の祭礼8月14日に合わせて、灯籠祭が行われます。神事と盂蘭盆会の二つの行事が結合した極めて特殊なお祭です。

 灯籠は神輿に従って巡行した後、田野神社に還り氏神四社合同祭典が行われます。祭典が終わって「灯籠追い」という行事や、神輿と大太鼓をぶつけ合い横倒しになりながらも、太鼓を打ち続けるので有名な「太鼓掛け」なども行われます。田野神社での祭やその後の盆踊りは、娯楽の少なかった頃はみんなの大きな楽しみで、夜が更けても踊っていたのですが、最近は盆踊りもなくなってしまいましたね。

 垣田 すごく大がかりなお祭なんですね。

 佐藤 昔は巡行のときは神輿を担ぎ、太鼓をひっぱり、灯籠も持ちました。神主さんは馬に乗っていました。このごろのように少子高齢社会になると奉仕者が減り、神輿や太鼓、灯籠はトラックに、神主さんは乗用車に、役員さんはマイクロバスに乗っての巡行で、なんとなく情緒がなくなってきたように思うのも、時の流れでしょうか。

第2部 地域医療支える原点 亀岡市医師会にあり

 加藤 話題を変えて、亀岡の医療についてお話しいただきたいと思います。亀岡市医師会には長い歴史があります。エピソードも多くありますが、中でも1956(昭和31)年9月の亀岡小学校での集団赤痢の発生では、医師会が大活躍したということですが。

赤痢集団発生で医師会奮闘

 大槻 この当時、私はインターンをしていました。市内で発生した赤痢患者の数は386人とも369人とも言われています。その1年前に亀岡市が誕生したばかりで、市は財政的に厳しい時代でした。そういうこともあり、亀岡小学校に臨時の隔離病舎をつくり患者を収容することになりました。小学校には245人収容しました。また旧亀岡町の西山にも隔離病舎があり、そこに57人、吉川の病舎には24人、公立南丹病院に38人、その他の病院に5人それぞれ収容しました。合計369人です。

 当時、医師会長の古畑文男先生と市長をしていた私の父の大槻嘉男とが話し合って、医師会として当番制で小学校に詰めるようにしました。個々の医師が自分の患者さんを診るのではなく、医師会として治療に当たるという奉仕的な活動だったのです。

 垣田 医師会全体として赤痢の患者さんを診られたということですね。対処の仕方としては当時として画期的なことだったのではないでしょうか。

 大槻 父親にあとで聞きましたが、自分自身も医師会員だったので、なんとか無理をお願いし医師会に協力してもらった、大変感謝していると言っていました。いまだと小学校の教室に病人を寝かせるなんてことはできないと思います。

 1996年12月6日に、亀岡市医師会は亀岡市と災害医療協定を締結していて、これは京都府内では第1号でした。1995年の阪神淡路大震災で、災害医療に対する意識がぐっと高まったということが大きな契機ですが、それまでの行政との協力体制の積み上げの結果だと思います。

様変わりした患者との関係

 佐藤 私は1964(昭和39)年に開業しました。その前は公立南丹病院で勤務医をしていました。当時、亀岡市内には、旧亀岡町で数人の医師が、その他の旧村では各1〜2人の医師が自宅で開業しておられました。当時の医師は、村医や校医を兼ね、子どもからお年寄りまで地域の人たちみんなを診ていました。よっぽど特殊な症例については、お互いに対診したり、専門医や病院を紹介していましたが、ほとんどの病気を診ていたのです。

 その時代のかかりつけ医と患者さんはとても親密な関係で、患者さんの健康状態、家庭環境などもよく知っていました。医師は患者さんのいろんな状況を知って、治療ができたわけです。

 患者さんの方も、家族全員でずっと診てもらっているわけですから、医師に対する信頼も厚いので、今のように、医療過誤、医療事故など問題となることがほとんどなかったという時代です。こういう医師と患者との関係が地域医療の原点だと思います。

 ところが、だんだん時代が変わってきました。統計によりますと、1949年、自宅で亡くなるのは80%くらいでした。ほとんどが自宅で家族、親戚に見守られながら臨終を迎えていたということです。それが2010年では、自宅で亡くなるのは12%だそうです。約60年で、いわゆる病院完結型に変わってきています。

 また、私が開業した頃から日本は経済復興を遂げて、国民の健康に対する関心も高まってきました。亀岡市でも1984(昭和59)年5月に保健行政の拠点として、保健センターが京都府亀岡保健所の跡地に竣工して、他の施設にあった休日急病診療所も同センター内に移転したのを契機に、行政と連携した医師会の地域医療への関与が飛躍的に増大しました。

 さらに医学も専門化が進み、その専門領域は狭く、深くなってきました。患者さんも、医学的な知識をどんどん持つようになってきた。それで専門医志向、病院志向が生まれてきた。昔みたいに「この先生に診てもろたんやから、どないなってもしょうがない」という関係がなくなってきているのです。患者さんとの関係は次第に難しくなってきているように思います。先生方も自分の専門外の病気については診なくなってきていますしね。

 ただ、私が開業した頃は、病院といえば公立南丹病院と亀岡病院しかなかった。今では病院も増えてきていますし、様々な専門医が開業されています。最近では亀岡の医療体制は、恵まれた状況になってきていると思うんですが。

深刻な救急医療の現場

 森戸 南丹医療圏は亀岡市と南丹市、船井郡京丹波町で構成され、14万人が住んでいます。その中で1、2、3次の救急医療が充足しているかとみると、科によってかなりの格差があるんです。たとえば小児科は、公立南丹病院が特化しています。小児科医は他の公的病院と比べるとたくさんいます。公立南丹病院だけで1〜3次までの医療圏の100%をカバーすることができています。これはすばらしいことで、大きく胸を張ってもよいことだと思います。内科や循環器の心疾患についても受け皿が整っていると言えます。

 上原 私は小児科を開業していますが、南丹地域では唯一、公立南丹病院が小児科当直体制を敷いており、ほぼ3次救急まで全例を受け入れてもらっています。しかし一方で、夜間休日には受診者が集中します。病院小児科が疲弊し、本来の救急医療体制が有効に機能しなくなるのではと懸念しています。

 当医師会は、亀岡市休日急病診療所への出務を通じて、休日昼間の診療の一翼を担っています。また、数年前には小児救急医療をテーマにした市民公開講座を開催するなど、市民が医療体制について理解を深め、医療資源を有効に活用できるよう啓発活動を行っていますが、まだまだ十分ではなく今後の課題と考えています。

 森戸 一方で南丹医療圏では、外科が非常に弱い。とくに脳外科は全然足りません。亀岡に市立病院がありますが、ここには婦人科も産婦人科もありません。市立病院は設立されて10年以上経ちますが、100床規模なので公立病院ながらどこまで亀岡の医療を担ってくれるか考えた場合、現状ではいろんな問題点を抱えています。たとえば交通事故を起こした、労災事故を起こした、子どもがスポーツ中に骨折した、こういったとき救急対応できる医療機関が非常に少なくて、救急指定病院の受け入れも非常に悪いという現状があります。

 消防署が選定困難事案のデータをまとめています。これは、救急の要請を受けてから搬送先の病院が決まるまでの時間、あるいは決まるまで何件の医療機関に断られたかという統計です。外傷患者の事案をみると、南丹医療圏が京都府内でワースト1です。夜間や土曜、日曜では、救急車は京都市内に向かう場合が非常に多いです。

 私も診察していると、患者さんから昨日は救急車で京都九条病院に行ったとか、済生会京都府病院に行ったとかという話は日常茶飯事です。外傷については3次救急は当然できません。2次ですら十分充足できていない。医療圏として非常に問題だと思います。

 ただし、救急医療は現状としては難しい問題があります。佐藤先生も指摘されていましたが、自分の専門外の症例について診てしまうと後で何を言われるかわからないと、どうしても危惧してしまう現実があるわけです。救急医療から手を引いていく状況があってもやむを得ないように感じます。病院としてやりたくても、専門医を24時間配置するということも難しい。いろんなファクターが絡んで府内ワースト1という現状を生み出していると思います。

 難しいことですが、こういう現状があることをわれわれ医師会、開業医が問題提起しながら、病院の先生方と連携できる場、情報交換できる場を増やして、お互い協力していく。今後は、診療所と病院の役割をうまくつなげていければと思っています。

亀岡市立病院と地域医療連携

 加藤 1989年頃から、医師会として地域医療連携の問題に取り組もうという機運が高まり、2004年に亀岡に市立病院ができる機会に合わせて議論を重ね、12年ごろから具体的な活動を始めています。市立病院については、当時の医師会長だった大槻先生が中心となり、どういう病院をつくるか議論していきましたね。

 大槻 当時、市長さんが各地域をまわり住民と懇談会の場を持つと、住民から出される市政への要望として、第1位にあげられるのが、公立病院をつくれという声でした。第2位が公共交通機関を整備せよ、です。しかし両方とも絶対採算が取れないものです。公立病院建設に対し医師会は当初慎重でした。公立病院をつくったとしても、果たして市民の医療への要望を充足できるのか。市民が期待する病院への要望というのは、「いつでもどんな病気でも診てくれて、しかも料金は安い」、そんな要望です。料金については、公立病院だったら他と比べて安いということは制度上あり得ないんですけどね。

 こういった市民要望を満足させる病院をつくれるのか。満足させようと思ったら、少なくとも500〜600床規模の病院でないと無理です。ところがしばらくすると、京都府も関わって65床の病院建設の計画が決まった。これは後に100床まで増やすことに修正されました。100床でどんなことができるのか、医師会としての議論が始まったのです。私は65床ならERをやればいいという意見でしたが、その後いろいろな議論を経て結局、消化器外科、消化器内科、整形外科、小児科を中心とした病院ということになりました。

 100床の病院をつくることになって以降、地域医療、地域医療連携ということが盛んに言われるようになっていた時期でもありましたので、この規模の病院で、少しでも市民要望に応えるにはどうすればいいか医師会で検討し、病院の中に医療情報センターをつくることになりました。これはたとえば、住民が亀岡から救急搬送されて、京都市内の病院に入院。退院後、その人に亀岡市内でかかりつけ医がいない場合、センターに相談すれば、適切な医師を見つけてくれる。紆余曲折がありましたが、そういう機能を持つ情報センターの設置が実現して、現在も活動をしています。情報センターでは医療だけでなく、介護や福祉に関する情報も扱っています。これが現在の亀岡市医療・介護・福祉連携推進会議へと発展していったわけです。

 垣田 亀岡の人口構成は、地域包括ケアが成り立つ地域なんですか。若い人たちがだいぶ増えているようですが。

 加藤 比較的若い人は多いですが、人口自体は減っています。

 森戸 2001年の9万5890人がピークで、現在は9万1000人台です。年々400〜500人ずつ減っていっています。

 垣田 減少の理由は何でしょう。

 大槻 かつてつつじヶ丘で大規模な住宅開発が行われましたが、そこの子どもさんたちが高校を卒業して市外に出てしまうと、もう戻ってこないということもあると思います。年寄りだけが残されていく。

 森戸 私は帰ってきましたが、近隣を見ていますと、私と同じ世代の人は帰ってきていません。

 加藤 私は新興団地にいます。開業したときは、周囲は30歳代、40歳代の同じ世代ばかりでしたが、今ではみんな60〜70歳代です。子どもはみんな市外に出て行ってしまっている。団地はそういう年齢層の移り変わりになりますので、将来はスラム化するのではないかと心配しています。

 森戸 同じ人口問題でも、亀岡では地域によっていろいろ性質の違いがあります。過疎地もありますし、新興住宅地でどんどん一戸建てが立っている地域もあります。小学校でも、児童数がものすごく増えているところと、減る一方のところがあります。両極端な現状があるように思います。

将来の亀岡の医療像は?

 佐藤 昔の地域医療というのは皆が往診に行き、どんな病気でも一人で診ていました。これが変わってきた。私自身、数年前、高齢の患者さんを往診しながら診ていたとき、訪問看護師さんの協力で大変助かりましたが、これからの地域医療はいったいどうなるんでしょうか。

 加藤 先ほども大槻先生がおっしゃったように、医師だけでなく、訪問介護、訪問看護、福祉に携わる方たちに協力してもらいながら在宅医療を進めていく、連携を深めていかなければならないんだと思います。医師一人では何もできません。日常は介護ヘルパーや看護師さんに診てもらい、何かあれば医師が行く。特に亀岡は広いですから、往診に行くのも大変です。片道30分くらいかけて1軒のお宅に行く先生もいます。1日に何人も行くことができませんから、他職種の方々の協力のもとやっていかざるを得ませんし、そうあるべきだろうと思います。現場に即した医療の在り方を考えていかないといけないと思いますね。

 佐藤 東日本大震災で被災したある医師が言っておられました。地域によって状況は違いますが、開業医は専門だけにこだわらず、総合医マインドを持ってほしい。それができれば過疎地の医療も解決できるのではないかというわけです。確かにそういうこともあるかと思いました。

 森戸 最後に宣伝だけさせて下さい(笑)。今年から京都亀岡ハーフマラソンが始まります。12月6日開催で、町おこしを兼ねての大会です。都市部でのマラソンですと、人工物が建っている道を走ることになりますが、この大会では空気のよい山間部を走ります。興味のある方はぜひご参加下さい。医師会も救護班で協力しています。

 加藤 本日はお忙しいところをありがとうございました。

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