見つめ直そうWork Health(20)吉中 丈志(中京西部)
政略と賠償輸出
韓国の文化日報(2015年4月3日)は、日本が朴正煕政権時代の韓国経済開発を助けたという主張は事実に反するというニュースを流した。韓国が「漢江の奇跡」を成し遂げることができた「呼び水」はアメリカから出てきたというものだ。1960年まで韓国に対する援助の7割は無償援助でほとんどがアメリカからであった。朴政権(1961年クーデターにて発足)による経済開発5カ年計画後もアメリカからの無償援助が6割以上であった。日韓請求権協定(1965年)で日本が提供した賠償金は5億ドルであったが、有償借款が2億ドルに達しており、しかも日本企業のためのものであったことを批判している。さらに「無償援助さえも現金支給ではなく、日本のプラントを購入するために使用するよう用途を指定した」というのだ。
朴政権は工業化のため各分野の外資導入をめざしていた。化学繊維ではナイロン、アクリル、ビスコースレーヨンなどである。これに乗ったプラントに件の東レのレーヨン製造設備が含まれている。
終戦後から継続していた日本と韓国の国交正常化交渉(日韓会談)に対して、アメリカは韓国軍の強化とベトナム派兵を期待して交渉成立を促していたという事情がある。これを背景に、朴政権はKCIAの金鐘泌部長を繰り返し日本へ派遣し、戦後賠償額を確定するための駆け引きを活発化させていた。その結果、1962年12月10日に行われた大平外相と金部長の会談で「無償援助3億ドル、有償援助2億ドル、民間借款3億ドル」(日経新聞)で手打ちがなされた。政権基盤を強化したい朴大統領にとって、ドルは喉から手が出るほどほしいものであった。慰安婦問題、強制連行、在日朝鮮人の地位などの懸案事項を棚上げにしてお金の流れを定めたのである。
この背後で動いたのが興韓化繊(後の源進レーヨン)社長の朴興植である。韓国経済界では抜きんでた親日派だったこともあって、李承晩政権では「親日民族反逆者」として逮捕、起訴されていた。ところが入獄後数時間で米軍(ホッジ司令官)により釈放されたという経緯がある。韓国初の百貨店とも言われる和信デパートのオーナーであったが、釈放後、興韓化繊を設立したのであった。政財界に隠然とした力を及ぼした大物で、日韓会談と並行してたびたび訪日している。後の日韓協力委員会(1968年両国政財界のトップで構成し日本側では岸信介氏ら)では委員となった。
1962年に来日した際には2カ月滞在して日本の各界と接触し、「日本とは国交正常化前でも資本導入を実践」(3月20日)することで合意したと発言していた。事実、東レのレーヨン製造設備の受け渡し契約仮調印はその9カ月後の12月20日に実現した。大平・金会談の10日後に当たり、お膳立てができていたことがうかがえる。当初の金額は30億円だったが、国交正常化前であったためにアメリカの商社を間に入れてAID(アメリカ国際開発庁)資金を使うことになった模様で、結局36億円の契約となった。中村梧郎氏によれば、「古いことなので書類も廃棄されていて価格などは分からない。間に三井物産が入っていてそのコミッションもあったはずだから、東レが受け取った金額はいくらなのか…」と東レの広報は歯切れが悪かったそうだ。
中古機械としてはとてつもなく高いが、公金で支払われるのだから何も心配はない。米日韓の政治的思惑が交錯する中で、日韓賠償問題の解決が急がれ、東レと朴興植双方がともに儲かる構図が作られたのである。