見つめ直そうWork Health(15)吉中 丈志(中京西部)
患者どうしの交流
「レーヨン工場における二硫化炭素中毒に関する全国シンポジウム」は3年連続で行われた。初回の倉敷市に続いて、1992年12月には熊本県八代市、94年6月には宇治市を会場とした。いずれもレーヨン工場の立地である。
2回目のシンポジウム(八代)には初めて被災した労働者が参加した。宇治からは初の労災認定患者で裁判を起こした3人の被災者と家族などが熊本に赴いた。提訴(87年)から5年、支援の輪が宇治や城陽など地域全体に広がっていた。ユニチカの労働者も9人参加した。分野を超えて多彩な労働組合が加わるようになっていた。医療関係や福祉・保育などの組合も参加し、官公労にも支援の輪が広がっていた。高校教諭や大学の教員もいた。医師、弁護士なども加わり、総勢46人であった。
私は当時、新設された京都民医連中央病院へ赴任しており、心臓カテーテル検査、循環器疾患の救急、集中治療室の立ち上げなどに奔走していが、時間をひねり出して熊本でのシンポジウムにも参加した。上京病院の東昌子医師(現・滋賀民医連副会長)などが被災者の診療に加わっていて、そのうちの一人である小林充医師(現・京都民医連副会長)も参加した。熊本からは、被災者、労働組合のメンバー、弁護士、医師ら14人が議論に加わり、参加者は180人であった。
このシンポジウムの特筆すべきことは、被災者同士の交流が実現したという点である。先が見えない苦しい生活が続く中で、分かり合える仲間と交流できたこと自体が大きな励ましとなった。労災認定や裁判にどう取り組んでいったらよいのか、生活をどうすればよいのか、いくつもの課題を参加者が共有した。それぞれの胸に希望の灯が点った。
その年の8月に新たに二硫化炭素中毒に労災認定されたFさんの妻は、シンポジウムに参加して次のように感想を述べている。「バスに乗って、八代の龍峰山自然公園の展望台へ、展望台からは八代の町が一望できます。八代の歴史、文化、産業について説明を聞きました。白い煙がモクモクと出ている十条製紙、八代ではCS2中毒だけではなく、小児喘息にも多くの人々が悩まされていると知り、とても悲しい気持ちになりました。八代橋では、バスを降りて興人と十条製紙の排水合流地点を見ながら、説明を聞きました。白く濁った水が流れ、周りには悪臭が漂っています。排水は水無川を経て、海へと流れ出るということでした。大変な問題を抱えた町でした。患者、家族、そして町の人たちが頑張って公害と闘う様子にとても心を打たれました」(健康をかえせNo.5 原文ママ)。
最初の原告であるYさんは奥さんに体を支えられて参加した。自分の体がままならず、うまくしゃべれない。「めいわくかけた。体がよく動いた。帰るときは普通の人のようにふるまえた。しんどくなく風呂にも入れた。一人で廊下もタッタッと歩いた。熊本の人らもわしらと同じや。不表情の人たちもいた。…話ができなかったのが残念。今度の裁判には行きます。今度の視察で元気が出た」(同原文ママ)。私にはこれが心の叫びだと思えた。