見つめ直そうWork Health(12)  PDF

見つめ直そうWork Health(12)

国の責任

吉中 丈志(中京西部)
 レーヨン工場における二硫化炭素中毒は国会で2回取り上げられた。
 第102国会の参議院社会労働委員会(1979年2月13日)で二硫化炭素中毒に伴う労働災害認定に関する件として橋本敦議員(当時・日本共産党)が質問したのが第1回目である。福島県郡山市の日東紡富久山工場、熊本県八代市の興国人絹パルプで起きた本中毒症をふまえて当時の労働行政のあり方をただしている。その中でいくつかの驚くべき実態が明らかにされた。
 労働省はこの時点で八代では30人の労働者が中毒症と認定され、うち11人が死亡、その中の9人は業務上死と把握していた。ところが、橋本議員の「危険物質である二硫化炭素の職場での許容濃度は一体どのように規制されておるのか」という質問に対して、労働省は「現在の段階におきましては濃度規制は二硫化炭素につきましてはいたしておりません」と答えた。戦前から問題となっていた二硫化炭素ガスに対して法規制が全くなかったのである。
 当時労働省は、米国産業衛生専門家会議(ACGIH)の許容濃度である10ppmを基準に採っており(日本産業衛生学会も同様の見解であったが、何故かACGIHが根拠だと繰り返し答弁している)、会社が自主測定値を「最高が6ppm、最低が1ppm」と労働基準監督署に報告していたので問題はないとしていた。多くの中毒症認定者が出ているにもかかわらず労働行政は対策を講じなかったということになる。
 業務上認定の基準で眼底の微小動脈瘤が必須条件とされていたことは、連載の第4回「専門家の力」で紹介した。これに対して同議員は、1981年に労災申請をした時点では認められなかった微小動脈瘤が3年後に新たに出現したケースを紹介して、微小血管瘤偏重ではなく、職場環境全体を視野に入れた判断を求めている。
 更に、興人慢性二硫化炭素中毒被災者の会が行った300人の労働者の追跡調査を取り上げて、全国にある12社15工場(当時)で実態的な調査を求めている。山口敏夫大臣(当時)は「実情を把握して、労働者の健康の問題、命の問題でございますから、十分その事態の即応しやすい形で対処したい」と答弁した。しかし、その後実施されることはなく、その延長線上に宇治のユニチカの中毒が起きたのである。
 第2回目は1993年2月の第126回国会の衆議院決算委員会でのことだ。寺前巌議員(当時・日本共産党)が取り上げた。
 議事録によると、「なぜこういう気になったのかといいますと、何人かの人に直訴されまして、こんなことが近代日本で許されるのだろうかということで、私も改めて見詰め直させられた問題であったから」と率直な問題意識から質問は始まっている。次いで「八代でこの問題に関するところのシンポジウムがあったということを聞きました。その時の記録を読ませていただいたら、そこには、南朝鮮から<中略>労働者の代表が問題提起に来ている姿を見ました」と述べ、問題は一挙に韓国へと広がることになる。

ページの先頭へ