見つめ直そうWork Health (6)
吉中 丈志(中京西部)
民主的集団医療
Yさんは精密検査のために上京病院(当時)に入院していた時期がある。季節は冬、年齢52歳、職歴19年の頃だった。40歳ごろから四肢のしびれが起きた。仕事を続けていたが脳血管障害(微小脳梗塞)を起こしてしまう。麻痺は軽かったが痙性がめだち筋固縮と失調がめだっていた。なんとか歩けるが転倒しやすい。仮性球麻痺があり、発語しても鼻から息が漏れる状態で、聞き取りにくい。記銘力障害もある。すでに働ける状態ではなかった。しかし、Yさんの表情に悲壮感はなく、不釣り合いな笑みを浮かべてたどたどしく話をしていたことが印象に残っている。Euphoria(多幸感)とカルテには記載されていたように思う。
病歴を聴取し、身体所見を取り、検査計画を立てて精密検査を進めていたある日のことである。病室からYさんの姿が消えた。看護師は当初、トイレか喫煙にでも行ったのかと思っていたが1時間たってもベッドに戻らない。院内のどこかに倒れていないかと探してみたが、Yさんの姿はどこにも見当たらない。誰からともなく、「病院の外へ出たのではないか」という声が上がった。それで一気に大騒ぎになった。雪がちらつく寒い日だった。冷たい風も吹いていたような気がする。病棟詰所の申し送りに近い時刻だったから、すぐに暗くなる。ジャンパーはベッドに残ったままだった。Yさんの病状を考えると、院外へ出て道に迷い徘徊している可能性が高いと思われる。奥さんに電話して知らせる。宇治の自宅には帰っていないという。もともと宇治まで自力で帰れる病状ではない。
勤務を終えようとする病院中の職員が集まった。看護師、事務、放射線技師、検査技師などなど。みんなで探そうということになった。暗くなり寒さが一段と厳しくなる中で、多くのスタッフが病院の近所の路地をくまなく見て回った。しかし、いない。Yさんはパジャマ一枚でいるはずだ。みんなの心配が募る。所持金はないはずなので遠くには行けないはずだが、警察にも連絡し、タクシー会社にも無線で捜索の手配をしてもらった。それでも手がかりになる情報はない。どこか人目につかないところで倒れていたら凍死しかねないと不安がよぎる。
ちょうどその時、松ヶ崎の簡保センター(当時)の職員から病院に電話が入った。お宅の病院の患者さんと思われる人をセンターで保護しているので迎えに来てもらえないかという。いろいろ話を聞いてみてようやく上京病院ということがわかったそうだ。どういう経路でそこまで行ったのか、なぜ簡保センターなのかは結局わからないままだったが、Yさんはとにかく無事に病院に戻ってきたのだった。
上京病院は京都民医連の労災職業病センターであった。振動病、頚腕障害、腰痛などの診断と治療を行ってきた歴史があった。私は、当時社会問題化してきた過労死問題に取り組んでいた。小さな病院であったこともあって、職業病の患者さんたちがどういう境遇にあるのかを職員のだれもが知っていたし、患者としてだけでなく自分たちの仲間として受けとめ支援していた。Yさんの主治医だった私にとって、医師の仕事はこうした職員の力と一緒になって初めて成り立つのだということを体感した瞬間だったように思う。厚生労働省がいうチーム医療+αであり、こうした医療のありようを民医連では民主的集団医療と呼んでいた。