見つめ直そうWork Health(5)
病人を診る
吉中 丈志(中京西部)
Nさんの妻は「原因、病名もわからないまま病院をさまよい、入退院をくり返し、ある病院の医師には世界的に珍しい病気と言われ、医学会に発表するからと身体のあちこちを切り取られて(生検のこと:筆者)不安な日々を送っていた」と振り返っている。Mさんは脳梗塞の入院歴がある。ある病院に入院した際、担当した研修医が若年発症なので何らかの中毒の可能性はないかとカルテに記載していたが、残念ながらそれ以上検討は深まらなかった。産業医学的な視点を加えて検討する条件がなければ診断は困難であるということである。
しかし、3人の労働者が慢性二硫化炭素中毒症として労災認定の申請をしたことで大きな転機が訪れた。自分の症状も該当しているのではないかという労働者がユニチカ宇治工場で次々と出てきた。私が診断したのは9人、同社の企業病院であったユニチカ中央病院(当時)で診断された労働者が5人になった。
洛南タイムスという地方紙の「ユニチカの元レーヨン部労働者労災申請」(1985年1月24日)という10行ほどの記事が妻の目にとまったことがきっかけで、Yさんは上京病院の私の外来にやってきた。54歳だった。両側の不全麻痺、感覚障害、仮性球麻痺があり錐体外路症状も目立っていた。40歳の時に言語障害と両手のしびれ(入院カルテ)で入院していたが、その後も病状は軽快しなかった。3年前からは、脳梗塞、脳血栓、仮性球麻痺などの病名で複数の病院へ入退院を繰り返していた。妻は記事を見て「これで助かる」と瞬間的に思ったという。「目の前がパーッと明るくなりました。この時から私の人生は変わりました」と手記に書いている。
Yさんは三つの病院に何回も入院を余儀なくされていた。しかし、いずれの病院でも病気の原因が明らかになることはなかった。40歳という若年で脳血管障害を発症していたことは重要な手がかりだった。けれども、高血圧や糖尿病などの危険因子には考えが及ぶが、二硫化炭素は完全に視野から外れていた。
ユニチカ中央病院もそのうちの一つだった。二硫化炭素中毒の歴史は古く戦前から知られていた。ユニチカ中央病院の院長は日本化学繊維協会(化繊協会)の研究員であり、化繊協会には研究の蓄積もあった。熊本の八代市にあった興国人絹八代工場では慢性二硫化炭素中毒症が46人(うち認定は35人)発生していたことが当時すでに判明していた。長年にわたり我が国の産業安全または労働衛生の推進向上に尽くし顕著な功績が認められたとして、院長は中央労働災害防止協会から緑十字賞を贈られていた。慢性二硫化炭素中毒症の発生を予知しうる最も近い位置にあったと言ってよいが、残念なことに産業医学の専門家の目が患者に届くことはなかった。
1960年代に平等院の屋根の鳳凰がユニチカ工場の煙突から出る硫化水素によって腐食するという公害が起きている。当時、公害企業に労災あり、と言われていた。公害を起こす企業では現場の労働環境はさらに悪く労災が発生しているという意味だ。市民目線のこのような視角も診断のヒントになったかもしれないと考えさせられる。