環境問題を考える(122)
Sigh deeply…
はあ〜〜〜〜〜〜↓↓↓
かつて私は保険医協会発行の『原発廃止に向けて』2002年8月という小冊子(10年5月改定)に、一般素人の考える原発消極的容認の理由≒肯定論を、向こう見ずにも否定論者の科学者(小出裕章氏)と討論する形で書かせていただきました。
そして、この初版のあとがきで、“先進国で軽水炉の大事故でもない限り人類のエネルギー浪費癖は治るまい=原発は存続せざるを得ない。将来の全地球環境を正しく考えられ、一般庶民の価値観を変えられるような強力なリーダーシップを持った教育者・科学者そして政治家が出現することを切望する”との意見を述べました。
あろうことかこの破滅的な大事故が、我が日本で起こってしまったのです(地震・津波が原因の、成るべくしてなったものとも言えますが)。この直後には全世界で反原発運動が大きなうねりとなり拡がり、実際に原発廃止を決定した国家も複数ありました。
しかしその後、当事国である我が国では徐々にしりすぼみとなり、不思議なことに今では“反原発=ダサイ・ウザイ”といった風潮さえ作り上げられつつあるようにも思えます。
政治面から見ても政権交代後は、更に容認・推進傾向となっており、原子力規制委員会の人事案でも、それは明らかです。
原発は最新の基本エネルギー計画で重要なベースロード電源と規定され、経済三団体も再稼働の加速を訴えています。しかし、廃炉のロードマップは全く示されていません。輸出にも前向きです。核エネルギーサイクル実用化という無謀な夢も捨てていないようです。
また先日、内閣府の行った避難解除予定地域における個人被曝線量調査の結果が、予想より高かったという情けない理由で非公表となったという報道がなされました。政府や東電による都合の悪いデータの矮小化・隠蔽・改竄は枚挙に暇がないと考えるべきでしょう。現在も汚染水は貯まり続けており(放射性物質の漏出は続いている)、収束などしていないのは明らかです。こんな有様なのに衆議院選挙や東京・京都の知事選のように原発問題は選挙の重要争点から意図的に外されつつあるようです。
原発問題について教えていただき、あの忌まわしい事故の後は心ならずも全国的に有名になられてしまった小出裕章助教は“私は政治には全く期待しません”と言い切っておられました。政治に期待せねば何も進まないのにと、当時少々訝しく思っていましたが、私もようやく悟ってしまったような気がします。
やはり原子力問題に関しては、政治には期待できないのだなと…。残念ながら破滅的な事故が起こっても、日本人の価値観は変わらなかったようです。
マイノリティーになってしまった(?)我々には、客観的事実を粛々と発信し続けるしか術がないのかもしれません。
(環境対策委員長 武田信英)