主張/忍び寄る高齢社会を見据えて
忍び寄る高齢社会の足音がきこえる。総務省の公表では、2013年10月時点で、65歳以上の高齢者人口が全体の25%を超え、総人口は3年連続減少したという。
平均寿命が漸増している一方、健康寿命の伸びは鈍化傾向がみられ、予測では2030年に高齢者人口は全体の33%に達し、現役世代が1・5人で高齢者1人をカバーすることになる。医療や介護などの社会保障費は膨張の一途をたどり、このままでは制度崩壊の危機に直面するであろう。いつまでも世界トップクラスの長寿国と誇っていられようか。
言うまでもなく、高齢者向け住宅の整備や地域での互助促進、在宅医療や訪問看護の充実など、取り組むべき対策は待ったなしである。だがもっと前向きな思考法はないか。
高齢者は茫漠と年を重ねた方々ではない。日本の繁栄を築き、支えてきた先人であり、かけがえのない知的財産を秘めた存在である。彼らは後進に道を譲り、沈黙しつつも、社会全体、地域、家庭などあらゆる領域で、貢献する術を知っている。労働人口減少の補填、日本の卓越した技術開発の精神や美的文化の継承のために、もうひと働きしていただきたい。それには定年の引き上げをはじめ、自らの経験を活かしたボランティアや世代間交流の活性化など、参画しやすい仕組みの構築が求められる。
他方、彼らの心象に立ち入れば、積み重なる病は気力、体力ともに奪い、やがて訪れる死に対する不安が影を落とさざるをえない。病と向き合う姿勢、終末期のありようを、医療界、宗教界、財界やマスコミが連関して討論すべきである。むろん非高齢者が無関心ではいられまい。
また“死”という響きは、タブーの意識や敗北感の磁気をおびて、医療現場を覆ってきた。今後多死社会の到来が予想される中、人格の尊厳が欠如した救命、延命があってはならない。“いかに死ぬか”を早い段階で話し合う環境が、整えられるべきではないか。
皆、命が続くかぎりやがて高齢者になる。少子化問題や女性の社会進出と包括的、巨視的に議論しながらも、個々の近未来として真剣に考える姿勢が問われる。