続々 漂萍の記 老いて後 補遺/谷口 謙(北丹)<47>  PDF

続々 漂萍の記 老いて後 補遺/谷口 謙(北丹)<47>

邂逅

 平成22年12月2日、京都予防医学センター某支所にて検診、M市のI医師と同席。本地の大規模メーカーの検診は終わっていて、中・小規模の会社職員の検診だった。開始して一時間たった時だったろうか。

「あっ、谷口先生、お久しぶり。ご健康そうで体調はよろしいでしょうか」

 顔を見て驚いた。大宮町三重、開業医生活時代に、ずっと診療を続けていたNご夫婦の息子さんだった。この方のご両親には深い思い出がある。お二人とも亡くなられた。昭和の中頃だったろうか。いやもう少し後になってからかもしれない。今でもありありと思い起こす。街の一番奥の集落に五十河村があり、更にその奧に内山なる山村があった。全村離村し、その時はもう無住の村だった。当地には小野小町伝承が残り、当時の町長が小野小町伝説を取り上げ記念館も建立した。そして内山集落にも道路、その他、開発を進めたのである。内山は日本有数と言われる林があり、これを町の保護文化財として人々の関心を得ようとした。舞鶴出身で現京都市嵐山住の詩人山口賀代子氏も、京都府庁にお勤めの時、来遊され、御著『離湖』の中に書いていらっしゃる。

 実はぼくも一度息子と一緒に出かけたのだが、現地に到着後すぐに凹地に車輪を落とし動けなくなった。さあ、困った、どうしたらいいだろう。ぼくは車の運転ができない。そこで思い出したのはNさんご夫妻である。Nさん宅からは4キロメートル離れているが、Nさん以外に頼める人は思い当たらない。当時ご夫婦は農家のかたわら、奥さんが中心になって先染織物を織っていらっした。丹後縮緬がさびれて先染めの織りが丹後機業の中心になりつつあった。お二人は忙しい、僅かの手抜きでも織機を止めなければならない。だがその時ぼくはNさんに頼む以外に何の手立ても思い浮かばなかった。Nさん夫婦は二人ではせつけて下さった。車を持ち上げ道路に戻す。1時間余り要したと思う。もちろん、お二人の仕事は中断のままである。こんな事件があってから、ぼくはNさん夫妻に深い感謝の思いを持ち、より親しくなった。

 だがその後しばらくして、Nさん夫婦には不幸が続いた。奥さんが婦人科系の悪性腫瘍に罹患され、手術を受けられたが死亡された。Nさんは独居されていたが、それでも家を出ておいでだった息子さん一家が帰られ、やっと平和な家庭を作られた。息子さんは隣郡の自動車学校の教員に就職された。ほっと一息つかれたあと、しばらくしてNさんが病床につかれた。肝疾患だった。そして約1年くらいだったろうか、結局Nさんは死亡された。なつかしい有難いご夫婦を失い、医師としてぼくは全く無力だった。

 かれこれ20年位たっただろうか、息子さんは無能な藪医者のことを覚えていて下さり、不思議な再会で、息子さんは今なお、自動車学校の職員をしていらした。嬉しかった。

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