続々 漂萍の記 老いて後 補遺/谷口 謙(北丹)<46>  PDF

続々 漂萍の記 老いて後 補遺/谷口 謙(北丹)<46>

夜明けの夢

 平成22年11月22日、月曜日早朝のことだったと思う。午前0時過ぎにトイレに行ったから、その時間帯だったと想像する。昔の口大野小学校に校医としていたことは前に書いた。ぼくの母校である。検診の当日、ぼくが教員室に入ったら、全部の座席がつまっていて、しかも何時も検診する診察室もない。ぼくはまごまごしていたら目が覚めた。仕事を辞めてから暇になり、その分、校医のことが知らず知らずのうちに重荷になっていただろうか。

 ぼくが小学校6年の間、5年間を担当していただいたのが福知山出身の芦田先生だった。当時芦田先生は教頭で、校長は前に少し触れた矢谷氏であった。父は口大野村々長を2期務め、小学校の校医をやっていた。ぼくの口から言うとおかしいが、まあ村の顔役だったと言っていいだろう。父は矢谷校長とは馬が合わなかったようだ。子どもの頃のことだから、そのあたりの事情は何も分からない。また校長がぼくに対して何か報復的な態度を取ったという記憶も全くない。矢谷校長の次男とぼくは宮津中学で同級で、同じ宮津線の汽車に乗って通学した。失礼な言い方だが、成績は中の上ぐらいだったと思う。

 卒業後何年位たった時だったろうか、宮津在住で23年秋、勲章を貰った吉岡均二医師が発起人になって宮津中学クラス会を催した。ぼくはその時、宮津中学を出てから初めて矢谷に会った。彼は京都住で大阪で何の仕事かわからないが社長をしていた。以後はお会いしていない。彼の兄は競技部の選手だったが、峰山町長岡に立派な居を構えており、ぼくは峰山方面に行く時、必ず彼の家の前を通過した。ところで彼の訃報を新聞のチラシ広告で知ったのはごく最近のことである。ある会合でぼくは同じ口大野に住む、元京都府会議長のK氏にお会いする機会があった。K氏はたまたま会合で矢谷氏と会食を共にしていた。何の話かは聞かなかったが、矢谷氏は悲憤慷慨し、声をあげた時、ぱたりと倒れ意識不明になった由、直ぐ119番をして近くの病院へ運んだ。そこからヘリコプターに乗せ、H県T病院に搬送し、開頭か開胸かわからぬが手術をして、そのまま亡くなったとのことだった。K氏がおっしゃるのには近くの病院に30分くらい在院して、いろいろな措置をしてヘリに乗せた。その間の30分の時間が惜しい、5分、10分でも早くT病院に送り適当な処置をしたら助かったではなかろうか云々。ただしぼくは医者の端くれとして、無能ながら警察医として、なかなかK氏のおっしゃるようなわけにはゆかぬと思った。ヘリコプターが京丹後市の病院の横にいるわけではない。30分後に連れて行ったとすれば、まあまあ上出来の方ではなかろうか。失礼ながらK氏のお話にも、横にいた家族同様の苛立ちと焦燥の感があったのだろう、お気の毒で衷心よりお悔やみ申し上げる。

 では話を元にもどして、ぼくの夜明けの夢はどんな意味があるのだろう。ぼくが校医をしている小学校に行き、ぼくの仕事の場所がなくてまごまごしただけの話である。でももう少し想像をたくましくしてみよう。当時の小学校の先生の給料はその地の役場が支払った。夏休みで先生は仕事をしないから、8月分の給与は出さなくてもいいじゃあないかと発言した村会議員がいたそうである。そんな立場で矢谷校長の忍苦の思いはあったかも知れない。いやいや、矢谷家は大地主で地区の富豪であったかもしれぬ。ぼくの矢谷校長への同情の発端たる夢はとりわけ何の意味のないことだっただろう。まさしく夢であったわけだ。

ページの先頭へ