続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)<30>
入澤達吉博士
読者は入澤達吉博士の名前はご存知だろうか。
氏は東大内科の教授で大正天皇の侍医だった。そして大正天皇の死亡診断書とも言える文書を書いていらっしゃる。大正天皇の病気についてはいろいろな揣摩憶測が流れ、ジャーナリズムを賑わせたと聞く。ぼくの父は何のコネがあったか全く不明だが、浦島神社あたりの某小学校の代用教員をしていたあと、志を立てて東京に行き、入澤先生の私宅に住み込み、玄関番兼書生のような仕事をしていたと聞く。入澤先生は父の生涯、仰ぎ見る人生の恩人のような存在だった。父の残した古い書棚に生涯大切にしていた『随筆 楓荻集』なる氏の著作がある。昭和11年8月10日、岩波書店より刊行。603ページの大冊だ。ぼくは徒然なるままページを開き、満4日間かかって読了した。表紙の次に「敬贈 入澤達吉」と印刷した小紙が貼ってあり、その横に「『随筆楓荻集』を読む。蘇峰生」なる新聞の切り抜きが如き紙片が並んでいる。ちなみに蘇峰生とは徳富蘇峰のことで徳冨蘆花の兄である。本書の422ぺージに「国民保険の深憂大患」(ラジオ放送)なる一章がある。文章の末に昭和10年1月4日と放送日が記されてあり、その最初に近く、日本の医者は三階級の医師から作られていた、と記されている。
第一種、先輩の医者の内弟子となり、見慣い聞慣れて医術を覚え、独学で医書を読み或いは不完全なる私立の医学校に通ひなどした後、内務省の試験(後には文部省の試験)を受けて医者となる者。
まさしく父はこれに該当する。だが天下の入澤氏の許で医学のイロハを習ったことは誠に僥幸であり、いかなるコネか不明の度が強くなる。不完全なる私立の医学校とは済世学舎の類だったろう。父は時おり、その学校のことを話したことがある。大学の助手、副手の人たちがアルバイトで講義をするが、ドイツ語を交じえたりするのでなかなか理解できない。ひどい時は先生の説を受け売りでそのまま話すのだが、本人自身が了解しないことをしゃべっていたりした、云々。
入澤氏は大正14年に定年で大学を辞めておられる。これはちょうど、ぼくの生まれた年である。父はときおり出京して入澤氏にお会いしていたようだ。父は幼時、母と生別し家庭的に不幸だったから、入澤氏の家庭によくなじんでいたのだと思われる。父から聞いた話。入澤氏が
「おい、おまえ、村長をしているそうだな」
「おまえの奥さんはいいところから来ているそうだな」
などと言及され、父は顔を赤らめたと言った。「いつまでたっても先生からはおまえと呼ばれ、しん(母の名前)は奥さんだからな、世話になると情ないことだ」云々。
入澤氏が発病されたとの連絡を受け、父は2回か3回、見舞いに行った。が偉いお弟子さんたちが集って相談しておいでで、父の出る幕はなかったらしい。夫人とも話ができなかったと歎いていた。そのうち危篤の電報があって父は馳せかけた。「そばにも寄れなんだ」とあとあと聞いた。有名な弟子さんたちがつどって合議をし、代表の人が「先生、これこれの加療をしましょうか」と質問すると、先生は笑って、「おまえたちの相談できめなさい」とおっしゃったそうである。
入澤氏は幼時より漢学の素養があり、漢詩を沢山作っておられる。随筆集の名称だが、楓は言うまでもなく「かえで」でふうと読む。荻は当然萩かと思ったが、辞書を引いて驚いた。萩と荻は別種の植物で、水辺、原野に生ずる菊科の多年草とあった。てきと読む。それで書名は楓荻集、となる。このことは集中、どこにも書いてない。何だか学力テストを受けているような気がした。
最後につけ加えることは、父は昭和21年9月6日に死亡したが、その後のことである。数人の方の連名で封書、内容は入澤達吉先生の御夫人が生活に困っていらっしゃるから、カンパをしてほしいとの文面だった。当時ぼくは大学時代の終わりか、インターン生の時だったかと思うが、全くどん底時代のことで無視してしまった。ああ、父にすまないことをした。