続々 漂萍の記 老いて後 補遺/谷口 謙(北丹)<43>  PDF

続々 漂萍の記 老いて後 補遺/谷口 謙(北丹)<43>

流れる

 保険医新聞に長々と駄文を連載させていただいている。もうそろそろ次の方に席を譲らねばならぬと思っているが齢のせいだろうか昭和21年9月6日、何の原因か不明のまま腸閉塞の手術を2回行ったあと、苦しんで苦しんで死亡した父のことが忘れがたい。享年66歳だったから、ぼくは父より20年も長生きをしたわけだ。ぼくは父の秘蔵っ子だった。何回か書いたと思うが父は生母と生き別れ、生母は離別され、その後峰山町の生糸縮緬商の許へ嫁に行った。ぼくには父の生母の追憶は全くと言ってもいい程、何もないが、子どもの頃母に連れられ、峰山町の金比羅神社の前あたりの家を訪れ、その背後のお墓に参った記憶がある。当時ぼくは立ったまま小便ができず、女性のようにしゃがんで小便をした記憶が僅かに残っている。おそらくトイレを借りたのだろう。母が恐縮していた。父が結婚し、現在の地で開業してから、父の生母はよく来遊されるようになったらしい。これはほとんど母に話を聞かされたことだったろう。ぼくには父の生母については全く何の記憶も持っていない。生母はやはり峰山藩士族の出であったらしいが、再婚先は生糸縮緬商だったらしい。峰山町から口大野村までの交通機関は何だっただろう。丸三バスはすでに走っていただろうか。いやいやタクシーを奮発しただろうか。母から聞いた話によると、姉千代子と松子と二人して父の母、つまり祖母が来ると、今日は何いいものを持ってきたか、いい物がなかったら追い返すぞとまくしたてて母を困らせたと聞いた。「私が言わせているようで困った」これは母がぼくによく言った述懐である。

 父の生母が再婚したのは峰山藩の士族だったと聞くが、母から漏れ聞いたばかりで真偽は全くさだかでない。姓は谷川といったらしい。ぼくの幼年時、おそらく父の生母の孫にあたる方だったろうと思うが睦ちゃんという小柄な女性が、千代子、松子を相手によく遊びにみえた。子供心に美しい人だと思っていた。琴がお上手で来られると必ず話の後は琴をお弾きになった。ぼくの姉2人はいつも座って聞いているだけで合奏することはなかった。おそらく到底太刀打ちできないのを知っていたからだろう。

 千代子は早逝し、生きている松子のすすめで、一度だけぼくは谷川家を訪問した。老女が独りで居られたが、おそらくそれが睦子さんだったろう。大変お喜び下さってお菓子をいただいた。ぼくの持参した手土産が粗末すぎたので数日後、再訪問をした。お別れに、今年はもう賀状を書くことができないでしょうとおっしゃった。確かに賀状は毎年きちんといただいていた。睦子さんのご子息が信用金庫にお勤めで、大宮支店に来たついでにとおっしゃって来訪された。生憎ぼくは不在でお会いすることができなかった。流れる、時はたしかに流れている。忘却の彼方へ。

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