続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)<38>

熊野郡

 依頼を受けて2回網野町に検診に行ったあと、22年6月末から7月初めにかけて4回久美浜町におもむいた。最初は同町浦明の町民センターに行った。新しい立派な建物だった。ご厚誼をあずかっているS氏住の集落だったが、集まった方々のカルテの地名を写しておいた。長野、浦明、甲山、鹿野、神崎、それに三原の人が1人、いらした。久美浜町は豊岡県に属していたこともあったらしいが、現在は京都府の最北端の町である。前にも少し書いたかもしれないが、ぼくが口大野小学校に通学していた頃、熊野郡から転校して来た生徒が時々あった。語尾にくんにゃあがつく言葉遣いで、悪童たちがよく嘲笑したものである。熊野郡の人は人間が丸いといった。つまり誠実なのである。検診は午前9時から始まることになっていたが、健診の迎えの車が来たのは午前7時45分で、8時半には着いてしまった。しばらく待って45分から診察を始めた。昼休みは1時間30分ある。これを利用してS氏の顔を見に行こうと思っていたら、隣の医師会のI氏に会った。ぼくが医業を中断したのと同じ頃、廃業された方で、ついつい話に花が咲き、時間が過ぎてしまった。I氏との邂逅も貴重だった。

 翌日の健診は、久美浜町公会堂だった。古びた建物で太平洋戦争後、昭和天皇が行幸された場所とのことだった。久美浜町の中心部なのだろう。前に久美浜湾が拡がり、向かって右に甲山、左には如意山が聳えている。昼休みに海岸まで行ってみたが、波は静か、ただし海水は濁っている。数日来の雨の影響らしい。海岸沿いの広場ではグランド・ゴルフに興ずる人々の群があった。当日と翌日と同所には2回行ったのだが、来所者の住所は、東本町、西本町、仲町、土居、新町、栄町、河梨、蒲井、奧三谷、神谷、長野、等々であった。海岸に立って遙か湾口を見やると、向かって前方から細い半島がつき出ている。おそらく先日行った浦明等々の集落だろう。この公会堂へは続けて2回通った。2回目に行ったとき、排水の故障でトイレが使用不能だった。

 最後に行ったのが農業センター。これも立派な近代的に整備された建物だった。わたしは懲りずに受診者の住所地名のメモを取り続けた。布袋野、金谷、市野々、竹藤、畑、市場、須田、新庄、島、出角、谷、栃谷、海士、佐野甲(他に乙、丙があるとのこと)、浜詰(網野町)、等々。聞き間違い、書き間違いはあるかもしれない。あって当然だろう。この地区の某夫人から嘆きの話を聞いた。いや、聞かされた。息子と二人暮らし、息子は子どもの時、てんかん発作があり、医者から間違った注射をされ、痴呆になった云々。ぼくと同年齢の方だった。

 来所者の切れた時、須田の人から同地の方の姓を聞いた。土出、水田、稲田―。後の二つは当然だろう。ただ土出とは、何と鄙びた適格な姓だろう。4日間の検診で、1日70人として合計280人か。当町人の何十分の一と知らないが、盲人が象を撫でる類だろう。

 整理しようと思っていた書棚に「京都府熊野郡誌 全」があった。大正12年12月20日発行、昭和47年4月1日 復刻版、久美浜町役場、発行元となっている。郷土史に夢中になっていた時があったから、おそらくこの時に購入したものだろう。この巻頭に近く以下の文章がある。

 熊野郡の区域は、往古より現在に至るまで特別に変遷せる跡を認めず。元明天皇の和銅6年丹波国加佐与謝丹波竹野熊野の五郡を割ち、始めて丹後國を立てられし事は続日本紀に記載せる所なるか。地勢上より考ふるに、東西南の三方は何れも山岳を以って区画せられ、北方は日本海に面し自然の郡界をなせるより、区域の変遷なかりしも又自然の状勢たりしなからむか。云々。

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