続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)<36>

ご近所さん

 郵便物を持って近くのポストまで行った。午後6時頃で、まだ明るかった。ポストまで往復約500メートル。帰路、女性に呼び止められた。拙宅より6軒目の家の前、組は違うが同じ町内だ。

 「先生、私は――の嫁です。一度お尋ねしたく思っていました。先生の与謝蕪村のご本を読ませていただいておりますが、蕪村とはどんな意味の名前なんでしょうか。でも蕪村って難しいですよね。何回読み返してもわからないところが出てきます」

 仕事を離れて時間がたち、古い患者さんと話をすることも全くなくなってしまった。それで蕪村のことなど、誰も私に声をかけてくれなくなっていた。でもぼくはとっさに考えてしゃべった。

 「蕪村は荒れ果てた村、貧しい境涯っていう意味ではないでしょうか。大阪の毛馬村にしても、丹後の与謝にしても、蕪村の生まれた郷土は貧困の家庭ではなかったかと思います。わたしも遊んでいますから、どうか来てやって下さい。診察室ででもお話ししましょう」

 これはぼくの本音だった。とっさにこの女性のことが思い出せなかった。

 帰宅して家妻と話をした。夫人は旧五十河村から出てこられた方で、口大野小学校で私の長女と同級生だった。ご主人のお父さんは私と同年で、当地での同年行事にはよくご一緒をした。何の病気だったかは忘れたが、42歳の厄年の行事がすんで間なく死亡されたと思う。お母さんは口大野小学校の一級上、宮津高女のご出身だったが、この方は近所の食品店に買い物に行かれた帰路、ぼくの医院のドアに手をかけ、

 「先生、先生」

とおっしゃりながら死亡された。幸い、ぼくが診察していたので検死は免れた。心筋梗塞、虚血性心不全、急性心不全、脳内出血、あるいはくも膜下出血、こういった種類の病気だっただろう。その家とは縁の深い患宅だったわけだ。

 ちなみに本人のご主人はご定年になられたと思うが、救急車に乗っておられた。それで地方公務員で、京丹後市職員、この点からもかかわりの深いご一族だった。お恥ずかしいが、万事が忘却の彼方へ消え去ろうとしている。まだまだ元気でおらねばと自分に言い聞かせているが、しみじみ人生の悲しみに打たれている日常である。

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