続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)<28>
流転
古いアルバムをめくっていて、ところどころぼくの幼少期の写真をみつけることがある。それはもう80年も前の思い出が蘇ることだから、追憶の情は齢を重ねるだけ深くなるのだろうか。
父が2号さんを持っていたのは、ぼくがもの心つくまでのことではなかったろうか。二人の姉からちょいちょい聞いたのは、二人が口大野小学校に通っていた頃、姉妹ともよく男生徒から揶揄されたそうだ。あとになり、ぼくもしばしば大人たちから聞かされたが、妾宅のあったのはごく近所で、おぼろげながらのぼくの記憶とうすうす合致すると、こう、信じることにする。徒歩で数分の場所である。これもどこまでも想像だが、母も当然、その女性と鉢合わせすることもあったのではなかろうか。妾宅に友人を招き、妾に汁粉や善哉、甘いものを作らせて接待をするのが、男の甲斐性、見栄であったとか聞いたことがある。現代から考えて夢のまた夢、遠く古い物語である。
父の仕事の忙しい時は別であるが、家族は一同台所で食事をした。この部屋の天井には天窓といい、ガラスを張った窓があった。採光のためである。一度だけ脳裏にきざまれた他愛もない記憶。父が一人、小さな膳の前に胡座をかいて座り、おそらく近所の料理屋に注文をした、刺身、茶碗蒸し、エトセトラ、横に徳利と盃、つまりいつにない御馳走が並べてあった。母が横に座って接待をした。こんな母の姿を見たのは後にも先にも一回限りである。母が横に座るまでに父とは内緒で、母はぼくに言った。
「お父ちゃんが、謙、食べろ、と言っておさしみの一切れを箸で出されても食べたらあかんで、おとなしく座っているんだで」
ぼくは黙ってうなずいて母の横に座っていた。父は数回、盃を傾け、全く機嫌よく食事を始めた。ぼくは生唾を呑み、じっと辛抱していたと思う。父が刺身を一切れぼくに食べろと言ってさし出したかどうかは覚えていない。ただ母は異様に浮き浮きした表情で、はしゃいでいたような記憶がある。
この小事件は何の意味だったろうか。家庭の些事、父母の反目の和解の姿だったかもしれない。ぼくには記憶がないが、上の姉は、昭和15年、ぼくが宮津中学3年生のとき、結核で死亡したが、よく話していたそうである。お父ちゃんが2号さんの所に行っている時、母の命で「お父ちゃん、急患です」と呼びに行かされた云々。
長姉はぼくにそのようなことを話題にすることは全くなかった。もちろん、母が語ることはなかったし、聞いたのはすべて次姉からである。更に次姉から話して貰ったこと。父とその女性との間に一人の男の子があったが、出征して戦死した由、いやいやその男性は父の子ではなくて、当地の生糸縮緬商の番頭さんの息子だったが、父は騙されていたのだと。戸籍謄本の類はぼくも何回か請求した記憶はあるが、これに関する記載は一切見たことはない。現在のぼくには父を憎む気持ちは毛頭ない。気障な言葉だが人生は流れるのである。