続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)

谷口 謙(北丹)

 朝日新聞「天声人語」欄にちょいちょい名前が出た。東淵修なる大阪市西成区で生涯を過ごし、貧しい人たちと暮らし、一代詩を書き続けた詩人名を覚えていらっしゃるだろうか。また、作品をお読みになったことがあるだろうか。彼は平成20年2月14日死亡した。糖尿病から慢性腎炎。透析を続けた果てであった。彼は酒豪で1日1升程度、連日飲んでいた由、奥丹後の郷里に過ごし、ひっそり外出もしないで詩を書き続けていたぼくのような無名人とは全く対照的な詩人である。ただ人生の縁とは不思議なもので、ぼくは東淵と一度だけお会いし、彼から第2回現代詩人アンソロジー賞なる賞をいただいたのである。ぼくは公募の東淵が主宰する詩誌「銀河詩手帳」に、作品「暖冬」を投稿し、最優秀作品として表彰を受けた。そして大阪市内の食堂で表彰を受け、賞状と楯をいただいた。平成3年11月1日のことである。その後は詩誌、詩集の交換は続けていたが、顔をあわせることはなかった。東淵が主宰していた「銀河詩手帳」は昭和43年創刊。ちょうど40年を経て彼は、不帰の客となったのである。

 東淵氏の後をついで「銀河詩手帳」の続刊をしているのはK女史である。K女史は自宅を発行所として実に綿密に定期刊行を続けていらっしゃる。その方が一度ぼくに会いたいとおっしゃった。そして平成22年4月10日(土曜日)にお会いしたのである。女性の年齢はわかりにくいが、中年のおだやかな方だった。素朴な方のように見受けられた。臆病なぼくはほっとした。お見えになったのが午後2時、お帰りの電車は3時半過ぎ。帰路宮津に寄るとのことだった。2時間半の会話。もっぱら東淵の追憶談であった。ぼくが東淵に会ったとき、女史はまだ「銀河詩手帳」の同人ではなかった。そのあたりの聞き込みが当日の目的だったらしい。お会いした部屋に東淵から貰った賞状が壁にかけてあり、その下に楯が置いてあった。女史はしげしげと眺められ、

「東淵は先生に読んで貰うため、ずいぶん張り切ってこの文章を書いたでしょうねえ」
とおっしゃり、じっと見続けていらっした。
 ぼくは思いついて、「今日の記念にあなたがお持ち帰りになったら?」
と言ったら、
「いやいや。これはここに飾ってやって下さい」
とおっしゃり、やがて前を離れられた。帰路、拙宅の前の大野神社社頭の桜の老樹が満開だった。4月に入り寒い日が続いたが、当日は温暖でいい日和だった。女史はいい日和にお見えになった。ぼくの所に女流詩人がお見えなったのは初めてだったが、もう二度とこんなことはあるまい。

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