保険医新聞の発展に功労/北小路博央先生がご逝去  PDF

保険医新聞の発展に功労/北小路博央先生がご逝去

 元京都府保険医協会監事の北小路博央先生(享年83歳、北)が、9月11日にご逝去されました。北小路先生は、1972年から理事、84年から88年まで副理事長、91年から96年まで監事をされ、長きにわたり協会活動に携わっていただきました。特に新聞担当として保険医新聞の発展に尽力。全国保険医団体連合会でも機関紙部長を務められるなどしました。先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 

 葬儀は14日にしめやかにとり行われ、協会名誉理事長の山田亮三氏が「畏敬する先輩」に向けた弔辞を捧げられました。

 

追悼

竹内周徳(名誉理事長)

 謹んで故北小路博央先生のご霊前に捧げます。

 

 秋には、先生との会食を楽しみにしておりましたのに、二度とお目にかかれなくなりました。

 

 淋しいです。悲しいです。

 

 府立医科大学病院勤務時代、先生は第二外科教室の医局長として怖いような存在でしたが、親しくしていただくようになりましたのは、昭和47年、相前後して保険医協会の理事に就任してからでした。以来今日まで、時には私の良き教師として、時には無二の良き友として、ご支援していただき感謝にたえません。

 

 保険医協会では、二十数年一貫して新聞部を担当し、全国保険医団体連合会(保団連)でも機関紙部長として、読まれる新聞、親しまれる新聞でなければならない、との信念を貫かれ、熱き情熱を注いでこられました。役職を退かれてからも多数の連載ものを投稿され、終始保険医新聞の充実に尽力してこられ、先生の誠実で温厚なお人柄と相まって、先生を知る多くの人々から、敬愛され慕われてきました。

 

 保団連の常任幹事として会議に、毎月第2日曜、朝一番の新幹線で、今は亡き菱本先生と私の3人で十数年東京へ通いましたね。また東京では幾度か、保険医療改悪反対、診療報酬引き上げ要求、などの横断幕を握りながら、白衣デモで大通りを一緒に歩いたことも思い出します。

 

 保険医協会の30年史の大書の編纂も、先生の尽力があったればこそ、の感深しでした。後年は副理事長、監事を務められ保険医協会の充実や行く末を導かれ、そのご功績は余りにも大きく筆舌に尽くし難いものであります。

 

 深更に及ぶ麻雀もよくやったり、また私の郷里の月山に登り、一面花盛りのお花畑の真ん中で弁当をつついたこともありましたね。

 

 北小路家に伝わる絵巻物を見せていただいたこともありました。江戸天保の時代、飢饉と悪疫の流行で路上に飢死する者多く、その惨状を救うため、北小路家16代目の当主たちが主となり、資金面は当時薬種業も営んでいた鳩居堂(寺町通姉小路角に現存)が受け持ち、三条河原に救小屋を開設して治療にあたった絵などがかかれており、この大事業は1年数カ月も続けられた由で、その行動力と慈悲深い志に、深い感銘を覚えたものでした。

 

 また室町時代、北小路家の初代当主が我が国最初の女科(産婦人科)の専門医として高名を馳せ、足利将軍家の御産所を代々司ることになり、やがて宮中のお産にもかかわることになったとの巻物も見せてもらいました。

 

 先生との思い出が、頭の中を駆け廻ります。

 

 万感胸に迫り、そよ吹く秋風も蕭蕭として空しく、惆悵の情益々巡り来て、哀悼の思い止まざるを如何にせんや。

 

 唯唯、ご冥福をお祈りするばかりです。

 

 室町時代から綿綿と続いてきた医家の21代目の当主としての気苦労もあったことと思いますが、22代目としてのご子息も名古屋の方で活躍されておられると聞いております。我が国医界の名家として、これからも末長く継承されていくことでありましょう。

 

 先生、どうか安らかにお眠りください。そのうち私もそちらに参ることになりますが、それまでのお別れと致します。

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