続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)
些細なこと
4月1日、快晴、月が変わると嘘のように暖かくなる。数カ月散髪に行ってない。今日は早々に床屋さんに行く予定にしていた。午前8時ではまだ早いだろう。8時40分、電話を入れた。「今1人お客さんがお見えになり、始めたばかりです。終ったら連絡いたします」。三十幾歳かのPさんのいつもの声。9時半頃、迎えに来てくれる。300メートル位の遠さだが、いつも送迎してくれる。老骨にはそれなりに嬉しいのである。彼にはまだお嫁さんがない。いい方があったらなあと思うが、世間の狭い自分にはなかなか見つからないのだ。彼はプロ野球阪神タイガースのファンで、なかなか知識が広い。いつも新しいニュースを教えてくれる。父親が同業だったが、50歳過ぎで肝疾患で死亡した。Pさんの母は71歳だと今日教えてくれた。やや小柄だが、スマートで瑞々しい。50歳代とも見える。今日聞いたら島根県浜田の出身。昭和12年生まれ、中学を卒業するとすぐ丹後のこの地にやって来た。当時は丹後縮緬全盛のやや終わりの頃だが、地元産業の少ない島根地方から大勢の少女たちが集団で集ってきた。そのほとんどが縮緬屋の織り手だったが、彼女はパーマ屋に入り住み込みの見習となった。その場所がぼくのところからすぐ近くだったので、その姿態はありありと覚えている。美容師の資格を取り、縁があってI町の理髪師と結婚。当地で開店した。が、主人は40歳頃だったろうか、肝疾患を発病。京都府立医大、与謝の海病院を廻り肝がんにて死亡。Pさんが京都から帰り後を継いだ。ぼくも父親の代から世話になっていたが、引き続き息子の時も通っている。
今日は久しぶりにお母さんに会い、前に連載「浜田」に書いたのだが、当時を思い浮かべ感無量であった。古いアルバムをめくっていて、浜田にて仕事をしている数枚を発見した。レールが敷いてあり、土を満載したトロッコを押している。西尾や西垣の姿が写っている。残念ながらぼくの像はないが、あの時代はぼくも一生懸命に土方の仕事をしていたのである。ぼくの追憶では、あの頃は18歳位だったろうと思う。床屋の母は小学校就学直前である。当然出会いはなかったろうと思う。彼女の話は世界遺産となった石見銀山、ぼくも一夜を過ごした三瓶山温泉の話に進んでいった。
「ああ、元気だったらもう一度行ってみたいなあ」
ぼくが呟くと、母親と息子は二人声を揃えて言った。
「先生、今は車があるから、細い道でもどんどん行けますよ。甲子園のナイターを見に行くよりも身体は楽かもしれん」
ナイターと言えば開業多忙の時、患者さんの息子氏から一度誘われたことがある。仕事を理由に断ってしまったが、患者だった彼のお母さん。未だ元気でいらっしゃるかしら。