続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)
仲 間(13)
前にも記したが、昭和23年10月1日からインターン生活に入った仲間は、ぼくを入れて4人である。名前は忘れたが、姓は覚えている。ただ頭文字と卒業学校名を記す。K(大阪大学)、G(京都府立医大)、H(慈恵医大)、それにぼく(京都大学)である。
Hは舞鶴市内の開業医の息子。インターンが終った時、父親は舞鶴を去り東京に行った。Hは「さようなら、谷口、もうおそらく生涯会うことはあるまいな」と名残りを惜しんでくれた。4人のうち、最も生活にゆとりのあったのは彼だったろう。Gは小学か中学の別は知らないが、先生の息子だった。専門学校や大学の教授ではなかっただろうと思う。だんまりやであまりうちとけた話はしなかった。おそらく小学校か中学の教師の子どもだったろう。Kもぼくも開業医の息子で、2人とも父を亡くし医院を閉めていた境遇だった。戦争直後の経済的な混乱は未だ続いていて、ぼくたちの生活は苦しかった。ぼくたちはお互いに話し合い、愚痴をこぼし合った。KはH市出身だったが、学生時代からか、インターン生になってからか知らないが、Kには恋人があった。このような人があったとすると、お互いに貧しい生活を語り合いながらも、Kにはいくらかの金銭的余裕はあったのだろう。ぼくは銭なく女なく全くの素寒貧だったのである。
ちなみにぼくたちは、看護婦、職員たちから「先生」と呼称されたが、前の前の世代の時には「インターン学生」と呼ばれていたそうだ。大学の卒業が半年早かったので、前年卒業の方が未だ残っておいでだったが、これらの方の代から院長と折衝し、先生との呼称が定着したのだそうだ。その先輩の1人に、同じ松江高校出身のSさんという方がいらした。彼は非常に朴訥な風貌だったが、医師になられて数年後、大阪で大きな病院を造られたとの噂を聞いた。驚いたが、その後のことは知らない。Kからはよく恋人の話を聞かされた。病院から帰る途次、どこかで待ち合わせて帰るらしかったが、その詳細は話してくれなかった。いつだったかGがその話の中で口をはさんだ。何で知っていたかはわからない。
「Kの彼女、あまり別嬪ではないそうだな」
Kは顔色を変えたが、じっとこらえていた。Kは大人だった。
いろいろな他愛もない話を覚えている。満大の外科教授、藤浪先生が満洲から引き揚げて舞鶴に上陸された。そしてそのまま短い時間だが外科医長を務められた。ぼくは先生の手術中、こう持をしていてひどく叱られた。
「不器用なのは天性だから仕方がない。だがせめて、手指の爪切り位はできるだろう。よく切っておけ」
ぼくは深爪をするのが恐ろしかったのである。当日帰るとき、廊下で先生に会った。ぼくは廊下の端により、最敬礼をしたが先生は軽く会釈をして下さった。