続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)

和菓子と散髪

 いま京都では小さなブームだそうです。その和菓子が食べたくて娘に頼みました。昭和19年10月1日から23年9月30日の4年間、医学部入学から卒業まで京都在住中、当時の府一(旧府立第一高等女学校)の前を通り湯川博士邸を左に見て出町今出川まで、義兄が住んでいたのでよく尋ねました。フィリピンから奇跡的に生還し、どこかの工場医をしていたと思います。そして敗戦。彼は婦人科を開業しました。口が悪く、ぼろくそには言われましたが、その反面、ぼくをそれなりに大切にしてくれたと思います。彼は死亡、ぼくの次姉も平成23年9月6日に亡くなりましたので、出町との縁は切れました。だが出町にはおいしい和菓子の名物商品を作る店があると娘から聞きました。店の前には行列ができ、買うのに30分かかった由、送ってくれた和菓子を家妻とお茶を飲みながら食べました。上品な甘さ、お茶がよく似合いました。

 死亡した次姉からよく湯川博士の話を聞きました。どこまで本当か知りませんが、面白い話題だったので書いておきます。湯川博士はここの菓子店がお好きで、出町で散髪をされたあと、よく菓子店を利用されたとのこと、ご主人が小学校か中学でか同級だったそうだとの噂も聞きましたが真偽の程は定め難いです。ただ博士はそこの菓子がお好きで、よく食べに行かれたとの話は伝えられているそうです。湯川さんは甘党だったようです。

 次に博士がよく利用された散髪屋の件、戦後のどさくさの時代、そこに散髪屋があったかどうか、はっきりした記憶はありません。ただぼくが開業医生活に入ってから間なしの頃、峰山保健所に女医さんがいらした。彼女は一度だけ所用のため来院されました。たしかぼくより一歳年長であったとは風の便りに知りました。何の用事だったかは忘れましたが、検診の依頼だったように思います。化粧けはなく、地味なお服装だったことは覚えています。その女医さんが出町の散髪屋の娘さんだったのです。休日で帰宅されると、いつもお父さんの仕事を手伝っていらっしゃるとの話を漏れ聞きました。湯川博士の行かれた出町の散髪屋がそこであったとすると話が面白くなりますが、残念ながら証拠がありません。もし万一、近所の人でも知っておられる方がありましたら、女医さんのその後も知りたく思っています。

 湯川博士のことは前にも一度書きました。ぼくが松江高校に入って間なしの頃、博士が講演にいらっしゃいました。いかにも温厚なおとなしそうな方でした。ぼくと同級で宮津中学から一緒に行った滝野が「あんなおとなしい人、軍隊に入ったらどうするんだろう」と後でぼくに言いました。講演後、数日して博士は文化勲章を受章されました。滝野は奈良に住んでいましたが、平成23年に死亡しました。夫人の年末の便りで知りました。

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