続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)
畏兄
堀正澄さんのことはずっと前に一度書きましたが、4月24日夜、北丹医師会の小さな会合で、たまたま同席したH医師と堀先生の話をし、もう1回書きたく思いました。網野町浜詰で開業しておられた先生の生活は今でも当地の語り草になっているそうです。ぼくも充分にその誠実さは覚えています。当時のぼくは開業し始めた若造医師で、いささか大げさにいえば死に物狂いで診療をしていました。健康にも医学知識にも毛頭の自信がなく、ただ闇雲に診療していました。大勢の人に迷惑をかけていただろうと、思い出しても頬の赤らむ気持ちです。
堀先生は、ぼくと同じ口大野村のご出身で、ご実家とは300メートルくらいしか離れていません。ただし、それは先生のお兄さんの住んでおられた所で、先生のご両親はまた別の所に暮らしておられたのかもしれません。先生の名前は2010年発行の京都府立宮津高校同会名簿の大正13年卒業の部にありました。ぼくは大正14年生まれです。
父は情にもろい男でしたから、自分の生活が苦しくても、堀先生が1人でやってこられ、医師になる学資を出してくれとお頼みになったとき、断ることができなかったでしょう。いやまた別の形で言えば、ぼくはまだ生まれていず、子どもは千代子、松子の女2人でした。それで堀先生を医者に育て、千代子の婿にしようと思ったのかもしれません。
堀先生が両親、兄を連れずにただ一人で依頼に来られたのは、宮津中学何年生のときだったでしょうか。旧制高校を受験するにはおおむね中学3年生の半ばから開始するのが常でしたから、おそらくその頃だったろうと想像しています。先生は六高に合格され、さらに京大医学部を受験されました。その頃、私の家は奥丹後大震災の影響もあり、父の援助は絶えたようです。先生は浪人中、三重小学校の代用教員になり、そして同僚の女性教員の援助で岡山医大を卒業されました。父はあとあと、堀先生が医師になるまで援助できなかったことを悔やんでいました。
先生は医師になられた後、隠岐の島の保健所所長をしておられました。毎月必ず給料の一部を父宛に送金されました。ぼくは昭和19年、大学の医学部に入りました。父の死後、食料も暖房もなく、寒い2階で暮らしていました。そんな時、金20円の現金書留をいただきました。涙を流したかどうかは忘れましたが、ぼくはぼくなりに心をこめてお礼の手紙を書きました。
堀先生が開業されてしばらくの後、母は先生宅を訪問しました。大歓迎をしてくれたと、母は喜んでいました。先生の奥さんのご病気(喘息か)で、先生はご子息のおられる長崎に行かれました。誠実なお人柄、先生のお名は現在でも残っているようです。いささか型は小さいかもしれませんが、私は丹後の宮沢賢治だと思っています。
最後にどうしても書いておきたいのは、姉の千代子です。ぼくは姉に可愛がってもらいました。ぼくと同じ丑年生まれです。姉が宮津高女に通っていた時、夕刻いつも口大野駅の途中まで迎えに行き、手をつないで帰りました。姉は堀氏を嫌い、父の命で婦人科の医師と結婚し、2人の女児を産み、若くして結核で死亡しました。父は死ぬときまで、堀氏の面倒を最後まで見なかったことを嘆いていました。骨肉の情でぼくは父に同情します。だが堀先生はその因縁の外にあって輝いていらっしゃいます。