続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)
賀状
例年の年賀状、仕事の忙しかった頃は、ただもう相手の名前を見るのが精一杯で、賀状を当方が落としていないか、調べるだけだった時代もあった。賀状には近況を語ったかなり長文の文章がついていることがある。この連載で散々書いた松江高校の松村博の娘さんからの賀状である。
谷口様、お年賀状ありがとうございます。昨年お送り下さった御本も父が喜んでおります。ご心配いただいております父は、入院7年となり、視力も低下しておりますが、お陰様で健康状態の方は落ち着いております。元旦も見舞いに行ってまいりましたが、谷口様のことを憶えておりまして、宜しくと申しておりました。ご健康を大切になさって、良いお年を過ごされますよう願っております。
表に住所と松村博、次女、望月祐子と記してある。文章も明晰だし、文字も美しい。
もう一枚賀状のこと。住所は岡山県北区となっているが、横にこれもただし書きがついている。石川県の娘宅にて、とある。N県Y市の市民病院長を最後にして郷里に住んでいる江見勇である。病院を辞してしばらく名誉院長をして断続的に仕事をしていたらしい。いつからか年次は知らないが全く郷里に定住していたようだ。彼はぼくと同じ、昭和23年京大卒の同級生である。ただ彼は満大の学生で引き揚げ者で途中から京大に編入した学生である。その時代は顔は見知っていたが話し合った記憶はない。彼と親しくなったのは、ぼくが開業医生活に入ってからだと思うが、ぼくのいた丹後中央病院に小児科医長として赴任してからである。当時ぼくは右側の人工呼吸をして貰いに、月に1回か2回、病院に通っていたので同級生のよしみもあって急速に親しくなった。彼は勝れた小児科医であったと思う。技量は抜群だったし文献もよく調べていた。ぼくは全くといっていいほど基礎の勉強をしていなかったので、絶えず患者さんを送り続けていた。
当時病院にはTちゃんと呼ばれる外科の主任看護婦(現在の師)がいた。ぼくより1歳年長だったと思うが、外科医長の井上先生の手術の助手を勤め、先生のお気に入りで信頼を受けていた。ちなみに先生は亡くなられたが、奥さんはまだお元気らしく、それこそ今年も賀状をいただいた。宇治市にお住まいで、お年は90歳を過ぎていらっしゃると思う。話はそれたが、Tちゃんは熊野郡、現在の京丹後市の御出身で、地元の地方公務員と結婚されるとの噂が流れていた。ぼくもいいお話だと思っていたが、青天の霹靂と言おうか、Tちゃんは江見と結婚をしたのだった。ぼくはこの話については何も江見とは話をしていない。友人(?)の1人として遠慮をしたのである。実はぼくが病院を辞めたあと、宮津町在住で中学同級生の吉岡均二が丹後中央病院に入った。ぼくは吉岡から江見の結婚話のアウトラインは聞いたが、吉岡も余りくわしいことを知っていなかった。
やがて江見は大学の教室に移り、またN県Y市の市民病院に赴任したと聞いた。彼はその地で永く留まり、やがて院長になった。これは彼から直接聞いたのではなく賀状による知識である。それから何年位たった後だろうか、夫人のお母さんがお亡くなりになったとのニュースを風の便りに聞いた。江見夫妻は帰ってくるだろうなあと、連絡を心待ちしたが何の伝言もなかった。前にも書いた23年卒業のクラス会の時、人ごみの中、江見が通って行った。(開宴前の待ち時間)「おい、谷口はおらんか。おらんか。どこだ。どこだ」江見はぼくを探しあてた。「奥さんは元気?」ぼくは問いかけた。江見は、
「そうだ。そうだ。ワイフからの依頼だ。会ったらよろしく言ってくれと頼まれていたんだ。忘れとったらひどく叱られる」
Tちゃんこと院長夫人は元気らしく安心をした。夫人の母親の葬式のことを聞こうかと思ったが、それは止めた。
それから何年位たった後だろうか。ぼくは病院の古い看護婦さんの1人からTちゃんの死亡の話を聞いた。これは驚いた。小柄で元気で仕事に走り廻っていたのを思い出して感無量だった。江見の子どもは娘1人だったと聞いている。
いつまで書けるかわからない。恥ずかしいことも、悲しいことも書いておこう。無名の物書きの他愛もないあかしの一つだ。