続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)

初  恋

 初恋とは、いつ、どんな女性に対してであろう。ぼくには12歳年長の長姉があり、ぼくにとってはセカンド・マザーのような存在だった。姉は宮津女学校に汽車通学をしていたので、夕刻、よくぼくは口大野駅への道の半ばまで着物姿で迎えに行ったのだった。姉はおだやかな性格で、いつも手をつないで帰宅をした。心理学的にいって、これを初恋と呼ぶのかとはわからない。ただ「お姉ちゃん」と呼んだとき、ぼくの小さな胸はとどろいていたのに違いない。

 宮津中学に入ったとき、ぼくもやはり汽車通学だった。3年生の半ばまで、このことについては何回かすでに記した。中学生は前の座席に座る。それでプラットホームでの待つ場所も、列車発着地の前の方だった。後方が女学生たちのそれだった。ぼくらは早く駅に行った。ぼくらの前を、頭を少し下げて女学生たちが通り過ぎて行く。

 1年生の後半か、2年生の初めごろだったと思う。少し左肩をくねらせたような形にして、女学生のKさんがぼくたちの前を通り過ぎた。Kさんは小学校の同級生だった。成績は中の上。走るのは余り速くなかった。その頃は何の感情も持っていなかった。が、小学校を卒業して1年か2年後で、何だかその姿態が非常に色っぽく、蠱惑的に見え、いじらしさが身にしみて感じられたのである。これはどこまでもぼくの主観であり、Kさん自身特別に変わったわけではないのである。その後、毎朝駅に行くのが楽しみになった。今日も会える。ぼくはわくわくしてプラットホームに立ったのである。毎日ではなかったが、帰りの夕方の汽車も一緒になることがあった。まさか連れ立って道を辿るわけにはいかないが、ふり向けば彼女を視野に入れることが可能だった日もあった。

 Kさん宅は拙宅から200メートルくらい隔たった道路沿いの家だった。家は当時、丹後地方を風靡していた丹後ちりめん関係のお仕事だったと思う。ただ生糸縮緬商といった大金を動かすような職業ではなく、技術的な仕事をしておいでだったように思う。詳細は知らないし、今となっては尋ねることも難しい。お父さんはよく見知っていた。小柄な腰の低い人で婿養子だった。お母さんの記憶は全くない。お兄さんが1人あり、非常に真面目な技術屋さんだったことは知っている。ぼくより5〜6歳年長だから、90歳代だろう。訃報は聞かない。

 Kさんは女学校を卒業後、間なしに結婚したようだ。昭和18年卒、太平洋戦争がまだ五分五分で威勢のよかった時代である。Kさんの異性関係の話は女学生時代から続けて何も聞いていない。着実な糸関係のお仕事をお父さんやお兄さんの許で地味に過ごしておられていたのだろうと思う。大阪に嫁がれた。

 何十年かたって小学校のクラス会があり、全く久しぶりに一度だけ会った。おだやかな風貌は変わっていらっしゃらなかったが、やはり昔と同じく肥っていらっしゃった。

 中学生の時、ぼくが誰かに洩らしたのだろう。汽車通学のとき、よくひやかされた。
「おい、谷口。Kさんがお通りになるで」
皆の者の視線がぼくに集中した。Kさんは全く知らなかったのだと思う。ぼくの前を何の風情もなく通り過ぎた。丹後山田駅から乗っていた宮大工の息子がよくぼくをからかった。
「別嬪とは思えぬが、谷口はどこがいいのかな。まあ人間はそれぞれ好き嫌いがあるからな」
宮大工の息子は歯科医になって開業していたが、若くて心臓病で亡くなったと聞いた。ぼくが大学に入って間もなく、彼と四条大橋の上で一度だけ会った。ぼくはぼんやりしていたが、彼に声をかけられた。学校の制服姿だったが、
「おいおい、谷口。わしを忘れているんかい」

 Kさんはまだ生きておいでだろうか。90歳を過ぎたお兄さんはどこかの施設においでるだろうから、探して尋ねたらわかるかもしれない。

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれない)の秋の実に
人こひ初(そ)めしはじめなり
 若菜集「初恋」第二連 島崎藤村

 若菜集「初恋」は4連まであるが、そこまで着けるかどうか。こころもとない。初恋とは1回かぎりのものだろう。

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