続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)(4)
愚かな
平成22年、今年は雪が深かったが、1月下旬某日珍しく晴天の日、思い切って古い肝硬変の患者だったP老女に香資を持っていこうと思いついた。いつも親切にかかわってくれる家妻の甥が、「何か御用はありませんか?」と言い、顔を出してくれたからである。朝の新聞に死亡広告の入っていたのは1週間ばかり前だったが、どうしてもふんぎりがつかなかったからである。老女は大正8年生まれ。ぼくより6歳年長である。カルテはまだ残っていて昭和63年12月5日初診。病名は慢性C型肝炎とある。最後の診療は平成17年12月17日だから、老女の姿を見なくなってから、足掛け5年になる。ちなみにぼくの医院が長期休診に入ったのが、20年6月30日(閉院にはしなくてもよかった)。
老女の住宅は○○小学校の裏の方だったことは知っていた。一度だけ往診したことがあったと思うがさだかではない。建て売りの住宅が密集し、道路は狭い。ここらと思い車を止めさせ、家外に立っている女性に聞いた。「ああ、谷口先生、Pさんとこはうちの裏側ですよ」と教えてくれた。当方は覚えていないが、相手はぼくを知っていてくれた。足掛け58年の開業医生活だったから、顔は売れていたのだろう。車を動かしてもらう。本当にちょうどPさん宅とは連なっていた。Pさん方の表札を確かめた。ドアを開くと老婆の娘さんと、息子さんのお嫁さんが現れた。
「まあ、先生」
ぼくが持参した香資を出すと、2人はぜひぜひと言ってぼくを玄関の次の間につれこんだ。お葬式の後の祭壇はそのまま残されており、老女の立(たち)姿の写真が飾られていた。型通りお線香を供え、ぼくは自然に目頭が熱くなり、とうとう涙がほとばしってしまった。こんなはずではないと思いつつ話し言葉はもつれた。
老女は俳人だった。どの結社に属しておられたかは知らなかったが、当地方ではかなり有名だった。旧大宮町の郷土祭りのとき、俳句の選者をしておられた。拙院でよく点滴注射をしたとき、終了したらできた句を紙片に記し、「できました」と言ってぼくに渡して下さった。失礼ながら句の内容は覚えていないが、通例月に4〜5回くらいだったと思う。病気の方は全く安定していたと思う。息子さんは地方公務員であり、お嫁さんはスーパーのパートをやっていらした。娘さんは何も仕事はしておいででなかったかと思う。
ぼくが涙を流してしまったあと、夫人が、
「肝臓がんでした。5年ばかりの病気でした」
と、おっしゃった。あっと思い、ぼくの最終診療日から足掛け5年。転医のとき病気は発見されたのだろうか。ぼくの涙はたちまち止まってしまった。夫人は「主人は2階で休んでおります」とおっしゃり、主人を呼び出された。主人の表情は硬かった。思いなしかぶっきらぼうだった。泣声を家内の甥に見せたくなく、ぼくは玄関を出て無造作に車の助手席に座った。ご夫妻が玄関を出て、ぼくを見送って下さった。主人の表情はやはり親密感があるように見えなかった。
家に帰り、ぼくはまたカルテを取り出し、意味もなく眺めていた。ぼくが診ているうちに病院に行かれ、肝臓がんが発見されたのだろうか。かなり長く老人ホームに入っていたと夫人がおっしゃっていたから、その時期に発病があり、発見されたのかもしれない。いやいや、主人は夜勤のあと、気持ちよく眠っていたのに、ぼくが来たと言って夫人に起こされ不機嫌だったのに過ぎないのだったかわからない。
いろいろ考えて考えて、ぼくは愚かな老人だったということに過ぎない。