続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)(2)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)(2)

佳 作

 長い開業医生活だったが、それは同時に文学的生活だった。今になって何の実績もなく終わってしまうことは、恥ずかしく残念な思いにつきるが、今さらどうすることもできないのが事実だ。だが生涯をかえりみて、小さな燈をともしたことが数回ある。せめてこの燈を書き残しておこう。

 「関西文学」という、半商業、半同人誌のあったことを知っていらっしゃるだろうか。この雑誌の主催者はY・K、病院長か医師か、はたまた病院事務長か、何も知らないで終わってしまった。この雑誌の某号の終わりのページに、大阪市某区にある病院の広告又は連絡めいた記載がある。診療科目は、内科、外科、整形外科、人間ドック、財団法人。本病院に「関西文学の会」指定の病院です。当会発行の「診療依頼書」により各種の特扱いがあります。「診療依頼書」は郵送もいたします。弊紙発行所にお申し出下さい。と書いてある。またある号で葬儀屋の広告を見たことがある。この雑誌を何で知ったか。記憶がないが、おそらく雑誌の広告だろう。早速会費を送って会員になった。この雑誌は近年、関西文学賞を公募していた。最初は小説だけだったが、やがて詩、小説、評論、随筆・エッセイの4部門になった。ぼくの知ったのは、昭和46年の終わり頃だっただろうと思う。会員になってからは毎年応募していた。最初は詩や小説も送っていたが、一向に手応えがなく予選もパスしなかった。それで最も気楽に応募できる部門として最終行に記載してある、随筆・エッセイの部に絞った。

 初めて予選を通過したのは昭和49年9月号、題名は「無名詩人始末記」。発表号49年11月号では没になっていて、かなり厳しい数行の批評がついていた。次に51年11月号、題名は「無名歌人」。同じような題材だが、素直な文章で読みやすい、と褒めてもらった。だがそれだけ。52年は「うたのかたち」が予選で題名のみ記載、1行の紹介もなかった。以後、53年から58年の間は予選通過に時々名が載ったが、それきり。それで会員では駄目なんだな。同人にならなきゃあと考えたりした。当時ぼくは詩と創作の2つの同人雑誌に属していた。今さら新しい雑誌の同人になることにはためらいがあった。もう投稿は止めようかと思ったりした。主宰者のY・K氏が医師かその関連の人であって、ぼくはお情けで予選を通過させていただき名前を掲載してもらっているのではないか。さもしい思いだが、そんなことを考えたりしたのだった。

 そして投稿を始めてからすでに10年を過ぎていたが、当時蕪村にめっぽう惚れ込んでいたので、思い切って最後だと思い59年、第19回の関西文学賞応募の原稿を送った。題名は「大坂梅女(むめ)」。梅は大坂曽根崎の芸妓で秘かに蕪村を愛していたが、蕪村没後、蕪村の弟子月渓の後妻に入り強妻となり月渓を叱咤激励する話である。ぼくの想像もあるが、資料も残り先ず間違いないとの自信もあった。この文章が佳作に入選し59年11月号に掲載されたのである。選評の言葉を写す。

 「考証の確かさに助けられて興味深く読み進めることはできるが、文学作品として感動を覚えるまでには至っていない点が惜しまれる」

 とある。受賞式は昭和59年11月23日(祝)PM1〜PM4、会場は大阪○○○○ホテル、立食パーティ、会費5500円。

 当日、勇んで出席したが、もちろん受賞者が注目の的で、ぼくは刺身のつまだった。いい年をして滑稽だったかもしれない。主宰者にはついにお会いできなかった。賞品は小さな置時計だった。賞状はなかった。これを機会にぼくは退会をした。主宰の方はその後しばらくして亡くなった。

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