続 記者の視点(10)
読売新聞大阪本社編集委員 原 昌平
モンスターと呼ばないで
人にやさしい刑事政策を提唱するノルウェーの著名な犯罪学者、ニルス・クリスティ教授(83)が来日し、京都でも10月8日に講演した。なるほど、とひざを打つ話がいくつもあった。
彼が強調したのは「どんな犯罪者でも、モンスターのレッテルを貼ってはいけない」という点だ。
今年7月に77人の命を奪ったノルウェーの連続テロの容疑者についても、同じ人間として受け止め、なぜ極端な考えを身につけたのか、本人と社会を見つめ直すべきだ、と語った。
モンスターで思い浮かぶのは、数年前に登場した「モンスターペアレント」「モンスターペイシェント」という呼び方である。
かなり定着してしまったけれど、私にとっては、いまだに大嫌いな言葉だ。
学校や教師にむちゃな要求をする親。医療機関に理不尽な苦情や自己中心的な注文をつける患者。
教育や医療の現場だけでなく、交通機関、役所、一般の店舗などでも同様のことが起きているようだ。
非常識な行動を肯定するつもりはない。現実的な防御は必要だ。暴言・暴力やあまりにもしつこい行動に及ぶ時は、組織的な対処が欠かせないし、弁護士や警察に連絡したり、民事の賠償請求をしたりしてもよい。
とはいえ、モンスターという表現はいただけない。そう呼ぶことによって、頭から理解を拒絶することになりかねないからだ。
理不尽な言動をする患者の一部には、病気への不安、やり場のない怒り、経済的困難などの要因があり、精神状態の安定やソーシャルワークによって、落ち着くケースもあるだろう。
そうでない場合も背景はいろいろ考えられる。競争社会のストレス、過剰な消費者意識……。目いっぱい主張しないと損をして負ける、という意識が根底にあるのかもしれない。
彼らの行動に共通するのは、攻撃する相手を、感情を持った生身の人間と見ないことだと思う。学校、医療機関といった「立場」だけで見ている気がする。
であれば、彼らをモンスターと呼んで人間性を頭から否定するのは、彼らの行動原理と似たことになってしまう。それでは解決から遠ざかるのではないか。
「理解」と「容認」はイコールではない。何ゆえにそういう行動をとるのか、理解を試みる努力は必要だし、そうしないと長い目で見て有効な手は打てない。
クリスティ教授は「言葉が、人との障壁を作ることもある」と語った。
「テロリスト」「クレーマー」といった言葉もそうだろう。医療従事者で言えば、患者についた病名が先に立ち、人それぞれの違いを軽んじることがある。
レッテルは、人間の個別性をはぎとり、立場や属性ばかりで物を見せてしまう作用をもたらす。
だから、モンスターペイシェントではなく、「理不尽な患者」ぐらいの言い方で十分だ。