占領下の「綜合原爆展」(6)/川合一良(下西)
天野重安先生と「原子爆弾症」
天野重安と「綜合原爆展」(以下、敬称は略)
天野は原爆投下時には京大病理学教室の助教授を務めていたが(後にウイルス研究所長)、既に血液学の分野では国際的に著名な学者であった。妥協を許さない厳しい研究態度は学生の尊敬を集めていたが、いわゆる「象牙の塔」の学者だと思われていた。ところが天野は「原子爆弾症」の研究に関しては強い関心を寄せ、1950年からの2年間、病理学各論の最終講義の一齣をさいて「原子爆弾症」の特別講義をされた。「綜合原爆展」パネルのうちで医学部学生によるシナリオの主要な部分は、この講義に基づいている。さらに天野は春の文化祭に際し、同学会の要請に応えて原爆講演会に講師として招かれ、聴衆に大きな感銘を与えた。天野が学生を対象に講演したのはこの1回のみであり、天野の「原子爆弾症」に関する熱意が窺われる。これは後述する京大調査班同僚の遭難死への天野の思いと、朝鮮戦争という厳しい情勢が天野を動かしたためではないだろうか。天野は後に述べている。「原爆展に私は多くの資料を提供した。…この資料提供には相当な覚悟が必要だった。占領下だから被爆の実態はアメリカ軍の機密だったのだ。私のところへも、占領軍当局から資料の公開はお前の責任でやれといってきた。その意味は、軍の秘密にふれて問題になったときはお前をとらえるぞということだ」。(「平和は求めて追うべし」1960年、京大同学会平和賞受賞記念会発行)
天野重安の「原子爆弾症」研究
原爆投下直後の8月10日、京大病理学杉山繁輝教授と理学部荒勝教室の木村毅一助教授らは広島に入った。そして投下された爆弾が原子爆弾であることを報告するとともに、遺体3体の解剖を行った。これは天野が後に「急性期原爆症」の概念を立てる上で、ほぼ唯一の貴重な資料となった。その後も京大調査班は多くの剖検資料を持ち帰っているが、これらは天野の「亜急性期原爆症」の材料になるものである。ところが京大の調査班の一行は、9月17日、大野陸軍病院に滞在しているところを枕崎台風に襲われて遭難、杉山繁輝教授、真下俊一内科学教授をはじめ11人の班員が死亡した。天野は後に述べている(「原子爆弾の病理」1961年、日本血液学全書)「余は恰もこの日、豪雨で不通のため広島行きを断念して引き返したが、これは山崩れの生じたのと同時刻であった。その後余は、只一人の研究者として、全剖検例の整理に当った」。このときの論文は以下の4編である。「原子爆弾障碍における急性型及び亜急性型の病理学的比較研究」「原子爆弾における放射能性物質、特に生体誘導放射能について」「原子爆弾障碍における骨髄像について」「原子爆弾死は一次放射能障碍によるか、更に残存二次放射能障碍を伴ったのと見なすべきか」。これらの論文のうち3編は、天野と遭難死した調査班員との共同執筆になっている。つまりこれらの論文は、天野が只一人で資料の整理をして書き上げた鎮魂の労作である。上記論文の要旨は、1945年12月2日の近畿病理学会集談会で報告されたが、論文そのものは占領軍によって発表を禁止され、講和条約発効後にようやく日の目を見るのである。
天野重安と「誘導放射能」
杉山病理学教授は以前から放射線の人体への影響に関心を持ち、島本光顕講師を原爆投下の2年前から理学部物理学荒勝研究室に派遣してこの研究を行っていた。この間の知識を基に、島本講師は剖検直後の新鮮臓器標本の放射線レベルを測定し、被爆時に浴びた中性子が作用して各臓器に「誘導放射能」を与えていると推論した。天野、島本はこの「誘導放射能」が内部被曝源として作用し、細胞機能に変化をもたらすものと考えている。現在、原爆訴訟や福島原発の発表において、この「内部被曝」をことさら軽視しようとする意図が国や企業側に見られるが、天野が1945年に早くもこの問題を指摘していることは、優れた先見性と言うべきであろう。
天野重安先生(1963年12月7日)
講義中の天野重安先生
枕崎台風で倒壊する前の大野陸軍病院