特別寄稿/原発の運転停止を命じた裁判長
弁護士 莇 立明
平成18年3月24日、金沢地方裁判所(井戸謙一裁判長)は、石川県志賀原発2号機の運転の差止めを命ずる判決を言い渡した。我国において初めて裁判所が原子炉運転の停止を命じたものであり、国民の間には大きな反響が起こった。国や電力会社の原発政策に波動が及ぶかと期待されたが、しかし、何らの改革らしきものが行われず、判決は控訴審で破れた。あれから5年が経過した。
そして、今年3月11日の福島第一原発事故の発生である。
「想定外」の地震(マグニチュード9・0)と大津波により福島第一原発1、2、3号機の常用、非常用も含めて全電源が喪失した。原子炉は冷却機能を失って核燃料が溶融、次々と水素爆発を起こし、放射線、放射性物質を外部へ放出し、放射線汚染は、四界に際限なく拡大の状態である。
井戸裁判長が、正に判決の理由の中で指摘した「耐震設計の前提とされた地震動の予測の手法に不合理な点があり、かつ、耐震設計の安全余裕がなかった」ことが、今回の福島原発事故で歴然としたのである。井戸裁判長は、退官して現在彦根市で弁護士を開業されている。6月2日朝日新聞のインタビュー記事において、「三陸沿岸では869年に貞観地震で大津波があったことが指摘されていますが、長い地球の歴史から見れば、わずか千年前に起こったことは、また起こり得る危険だと思う。原発という危険なものを扱う以上、千年前の事故だからとして想定外はない。当然に予測し備えるべき範囲に入る。東京電力がまともに対応しなかったことは信じられない」と言う。また、志賀原発については、原発近くを走る断層帯について、国の地震調査委が全体が44キロ一度に動く可能性があり、想定される地震はマグニチュード7・6と公表しているのに、被告北陸電力は、独自の調査で断層は別々にしか動かないとか、7・6は有り得ないと言うのみであり、いくら「安全だ」と言われても信用できなかったと話す。
国や電力会社の姿勢には、原子力発電という極めて専門的、科学的な技術について、安全か、危険なものであるかの判断は、専門家に匹敵するような勉強と知識を身に付けた者でなければできない、「我々に任せて置け」との傲慢な愚民思想がかいま見えるのである。
井戸裁判長は、自分は裁判官といっても、原発の素人である。裁判には、膨大な証拠が出される、それを熟読して、原子力発電の仕組みを基礎から理解していくわけですと述べる。立派な肩書きの方々の造った原発の耐震の指針にも疑問があれば疑問を投げかける。
判断するに当たっては参考となる先例も判例もない。自分で論理の構成を考え、「よしっ」と確信が持てるまで、分からないところは、悩み続けてようやく判断に到達する。途中では無難な結論への誘惑もあった。しかし、「原発の安全」については、最高裁の判例でも、立証責任は、被告国、電力会社にあるとしている。ところが、被告らは、原発が国の指針に適合していることさえ立証すればよいとし、原告住民がそれでも危険であるとするなら自分で立証しなさいという態度である。この論理がこれまで通用していたのである。
井戸裁判長は、それでは原発の具体的な安全は確保できない。被告国や電力会社が原発という大変危険な施設を抱えていて、安全に運転できますというのなら最後まで被告として立証させるのが公平だと思ったという。ここらあたりが並の裁判官ではない優れた裁判感覚の現れであり、意思の強さを感ずる点である。
そして、最後は、志賀原発には、国などが想定した基準値を超える地震動を受ける具体的な可能性がある。その場合には、電力会社が構築した「多重防護」による放射線や放射性物質の外部漏出を阻止する機能が働くとは認められない。すなわち、周辺住民は許容限度を超える放射線を被曝する蓋然性があるとの結論に達したのであった。
井戸裁判長は、結論はこれしかないと確信したので気持ちは落ち着いた。判決が、いくら世論と乖離していても、少数者の言い分に過ぎなくとも、言い分に「合理性がある」と判断した以上、認めねばならない。原告が、主張するような原発事故が起き、被曝という具体的な危険があるのかどうか、裁判所は、その主張の判断をするだけです、と割り切った心境を述べている。
福島第一原発事故の発生は、井戸裁判長のこの判断が正しかったことをまざまざと証明したものである。今や、国民は、「電力が大事なのか、それとも、子供たちの未来、命が大事なのか」の選択の瀬戸際に立たされている。両者の並立はないことを井戸判決は訴え続けるであろう(2011・7・25)。