占領下の「綜合原爆展」(5)/川合一良(下西)
原爆展全国に拡大
「原爆展センター」を設置
1951年7月の「綜合原爆展」の成功は直ちに全国に伝わり、各地からパネルを借りたいという要望が京大同学会に寄せられた。最初は丸物百貨店で展示したパネルを送っていたが、あまりにも希望が多くて間に合わないため、同学会内に「原爆展センター」を設置し(代表は中岡哲郎中央執行委員)、10数組の小型原爆展パネルを作ってこれらの要望に応えた。中岡は自著『現代における思想と行動』(三一書房、1960年刊)に書いている。「原爆展や原爆写真の申し込みの事務をしながら、私は新制高校や農村のサークル、青年団等からの申し込みの多いのに驚いてしまった。原爆展は期せずして、彼等に適当な武器を与えていた。自治会を作れない新制高校の社研の生徒には、文化祭に小さな原爆展をやれるかどうかということが、彼等のぶつかっている壁を破れるかどうかの境目になっていた」。
中岡哲郎著『現代における思想と行動』(1960年)
記録が残っている各地の原爆展には、次のようなものがある。
京都府下(岩滝、久美浜、周山、園部)、大津(学生1人逮捕)、彦根、静岡、三島、東京各地、小金井、川崎、横浜、鶴見、宇都宮、浦和、太田、北海道各地、松本、佐久、名古屋、大阪、布施、北摂(高槻、茨木、枚方)、紀伊田辺、姫路、岡山、福山、松江、米子、鳥取、城崎など。
北海道の原爆展
これらの原爆展のうちでも、占領下と朝鮮戦争さなかの緊迫した情勢を最も強く反映した「北海道原爆展」を紹介する。
京都の「綜合原爆展」の成功の知らせを受けるや、民主主義科学者協会札幌支部は直ちに幹事会を開き、道内でも原爆展を開くことを決定した。第一次として、室蘭・旭川・札幌・函館での開催が決まり、80枚のパネルが作られた。丸木・赤松画伯の「原爆の図」も参加が決まった。最初に開かれたのは室蘭市で5千人余り、次の旭川の丸勝デパートでは平日の5倍の人が来館、札幌では2万人が入場した(逮捕者1人を出している)。
運動はさらに進み、翌年の1952年には、1月10日から4月末までの間、しばれる厳冬の各地で、1カ所数日の日程を途切れなく続けるという超人的な作業が敢行された。開催地は、1月10〜17日の夕張市を皮切りに、岩見沢・美唄・渡・砂川など34の炭鉱都市に及び、入揚者は15万人を越えたと言われている。当時、北大理学部学生であった和気和民は述べている。「赤平会場では、炭住からの主婦や中学生が多かったようだ。茂尻では、交替で出坑してきた人達がヘッドライト姿で続々来場し、すすけた顔のまま食い入るように「原爆の図」に見入っていたのが印象に残る」(『蒼空に梢つらねて』北大5・16集会報告集編集委員会、柏艪社、2011年2月刊)。
北海道原爆展の前年1950年5月には、共産主義者を大学から追放せよと称して全国の大学を巡っていたGHQ顧問イールズの講演を実力で中止させた「イールズ事件」が起こって緊迫した時であった上、同年6月25日には朝鮮戦争が勃発したところであった。すでに中国は北を支援するために軍隊を派遣してマッカーサーの国連軍と対峙していたが、これにソ連が参戦すれば第三次世界大戦が起こり、北海道は最前線基地となる。道内には開戦直前の異様な雰囲気が漂っていた。北海道の原爆展は、このような厳しい情勢の中で行われたのである。
「綜合原爆展」はビキニ以後の原水爆禁止運動昂揚を準備
京大ではその後、帰郷学生が有志教官とともに故郷で原爆展や講演会を行う「帰郷活動」や「水爆展」が実施されたし、前述のように全国各地で原爆展が連綿と続いていた。これらの活動は、1954年のビキニ事件を契機として爆発的な昂揚をみせた原水爆禁止運動を準備していたということができる。
帯広原爆展ポスター(1952年)
北海道原爆展ニュース(1952年)
京都・毎日新聞が「綜合原爆展」を掲載
本紙連載を一つのきっかけに、綜合原爆展の記事が掲載された。京都新聞「あの時が重なる―大震災の年に」(8月10日)、毎日新聞「11平和考・京都―綜合原爆展から60年」(8月13日〜4回)。