占領下の綜合原爆展(4)/川合一良(下西)
「原爆展掘り起こしの会」の活動
「京都民報」が「綜合原爆展」を初紹介
1951年に綜合原爆展が行われた頃は、国の内外や京大内部において事件が多発した時代であった。例えばこの年の9月8日には講和条約調印、日米安保条約の締結があり、また10月12日には、国による大掛かりな「天皇事件」が起こされて、京大同学会は解散を命じられている。これらの事件への対応に追われる中で、我々の「綜合原爆展」の記憶はいつしか薄らいでいった。
「綜合原爆展」から34年後の85年初め、医師の仕事をしていた筆者のところに、京都民報の湯浅俊彦編集長(当時。後に「かもがわ出版」を創立)が来訪され、「綜合原爆展」のことを教えてほしい旨の依頼があった。この運動が日本の原水爆禁止運動の中にまったく記録されていないことを疑問に思っていた筆者にとっては、願ってもない機会だった。少ないつてを辿って情報を集め、これが同年4月14日の京都民報一面をぶち抜く「京大同学会が取り組んだ米占領下の原爆展」という記事となった。しかし残念ながら、筆者自身は多忙な日常の中で、この機会を生かして調査を継続することができずにいた。
「朝日新聞」真期孝夫京都支局長の勧告
そしてさらに6年が経過した91年8月、朝日新聞の真期孝夫京都支局長が来られ、「綜合原爆展」を埋もれたままにしてはいけない、早急に資料収集を始めるべきだと勧められた。筆者は連絡のつく関係者と相談し、「原爆展掘り起こしの会」を結成した。真期支局長には、朝日新聞本紙記事「知られざる『原爆展』掘り起こし」で我々の背中を押していただいた。
「原爆展掘り起こしの会」の活動始まる
会の世話人は、15人(3人は故人)で、世話人会は43回行われ、ほぼ30ページ立ての「『原爆展』掘り起こしの会ニュース」を9回発行している。
92年6月25日のニュース2号までに中心になる資料は集まっていたのでこれを特集し、同年7月11日、コープイン京都で「綜合原爆展を語る会」を開催した。全国各地から約80人の学友はじめ関係者が集まり、熱心な討議が繰り広げられた。「綜合原爆展」には従来の学生運動の枠を超えた広範囲の参加者があったことや、敗戦直後の反戦・厭戦の国民感情に基づいたものであっただけに、多方面の学友が集まった。支えていただいた西山夘三京大名誉教授や角南正志元学生課長も参加された。「綜合原爆展」は準備期間が僅か3カ月しかなかったため、学生たちには自分の関係した部分の作業しか分からない場合も少なくはなかったが、この集会でその全貌が知られるにつれて、大きなことをやったのだという青春の思い出を語る人も多くみられた。
語る会にて、前列左から4人目角南元課長、5人目西山名誉教授
宇吹暁助教授講演「被爆50年と原爆展の位置」(広島大学原爆放射能医学研究所)
調査は、まず聞き取りによって判明してきた関係者へのアンケートから始まり、それに基づいて資料収集や面接によるインタビューを行った。最初の面接時には、「思い出せない」「自分は何もしていない」と答える学友が多かったが、数人一緒に討論するうちに思い出してくる場合がほとんどだった。このようにして集めた資料は約2700点、テープ135個になっている。
そして94年11月12日と13日には、広島で「綜合原爆展を語る会・広島」を行い、25人が参加した。
資料がある程度集まった段階で、世話人会を代表して小畑哲雄が中間報告「占領下の原爆展―平和を追い求めた青春―」(95年6月、かもがわ出版)を執筆したが、その祝賀会が翌年8月12日にコープイン京都で行われ、44人が集まって討論した。資料の保存方法や執筆については、現在検討中である。
『医師たちのヒロシマ』
「核戦争防止・核兵器廃絶を訴える京都医師の会」は91年6月、『医師たちのヒロシマ』(機関紙共同出版)を発行した。これは被爆直後の京都の医師たちの原爆症に取り組む活動を描いた優れたレポートである。ただこの本の発行時はまだ「原爆展掘り起こしの会」が発足していなかったので、「綜合原爆展」には触れられていない。小畑哲雄著『占領下の「原爆展」』(かもがわ出版)と合わせて読むならば、お互いに補完できると考えている。
『医師たちのヒロシマ』
『占領下の「原爆展」』)