占領下の「綜合原爆展」(2)
川合一良(下西)
「綜合原爆展」の時代的背景
1951年7月、日本で初めて「綜合原爆展」が京都駅前の百貨店で行われたが、この当時はわが国がこれまで経験したことのない厳しい時代であった。
占領軍による原爆報道と研究の規制
原爆投下の直後から各国のメディアは原爆による悲惨な状況を伝え始め、国際的にも大きな反響を呼んだ。これに衝撃を受けた占領軍は、連合国特派員の広島・長崎への立ち入りを禁止し、さらに日本国内での原爆報道を抑圧するために、50年9月、国内の全ての報道機関に「プレスコード」を指示して「連合国についての虚偽ないし破壊的な批判はこれを一切禁じる」と発表、違反すれば軍事裁判に附されることになった。あらゆる出版物は厳しい事前検閲を受け、容赦なく発行禁止を命じられた。
原爆被害研究に対する連合軍の妨害も徹底したものであった。被爆直後より日本の多くの研究機関は被爆地に現地入りして多くの成果を上げていたが、これらの研究は45年9月、学術研究会議に「原子爆弾災害調査研究特別委員会」として統一された。ところがこの会議の第1回の席上、連合軍の代表は、突然、「日本人による原爆災害発表は、総司令部の許可を必要とする。そして、その結果の公表を禁止する」と指令した。この特別委員会は次第に姿を消していき、多くの貴重な研究論文は没収されて米国に送られた。また、45年9月に米軍と東大の研究者で結成された「日米合同調査団」が被爆地で調査研究に従事していたが、中心人物のアヴェリル・リーボウ中佐(エール大学教授)は全国の主要な大学医学部を訪れ、収集されていた多数の原爆資料を事実上強奪した。この時、京大天野助教授(当時)が日本人でただ一人、堂々とリーボウと渡り合って資料提出を拒否されたことは、今も語り草となっている。このようにしてわが国における原爆被害の研究は、講和条約発効まで禁止されたのである。
朝鮮戦争
この当時は、厳しい米ソ対立が続いた冷戦時代であった。朝鮮半島は38度線で分割され、南は大韓民国、北には朝鮮民主主義人民共和国が誕生していたが、実質的にはそれぞれ米国とソ連の支配下にあった。国境では絶えず紛争が続いていたが、50年6月25日、北は突如38度線を突破して南への攻撃を開始し、9月はじめには南を半島南端の釜山周辺一角に追い詰めた。
この間、米国はソ連欠席のもとで変則的な国連決議を取り付けて北を侵略者と決議させ、国連軍の名のもとに軍隊を朝鮮戦線に派遣した。そして9月15・16の両日、国連軍は伸びきった北の配置をついて仁川に奇襲上陸し、攻勢に転じた。国連・韓国軍は北進を続け、10月には中朝国境の鴨緑江に達した。
一方、前年に成立した中華人民共和国は、自国と共産圏防衛のため中国人民義勇軍の名のもとに参戦し、国連・韓国軍を撃破して旧38度線のあたりで両軍は対峙した。両軍の南進、そして北進のたびに韓国と北の要人たちは残酷に殺害され、一般民衆も戦闘に巻き込まれて多くの人々が死傷した。ジョン・ハリディとブルース・カミングス(『朝鮮戦争―内戦と干渉』岩波書店、1990年)は、この戦争で失われた朝鮮人の人命を300万人以上と推計している。この数字はやや大きく見積もられているようであるが、控えめに見ても、十五年戦争で失われた日本人の人命310万人と対比するとき、朝鮮戦争の規模と悲惨さに驚かざるを得ない。そして11月30日の「原爆使用もありうる」とするトルーマン米大統領の衝撃的な発表へと続くのである。もしこの戦争にソ連が参加したら第三次世界大戦になるところであったが、これは辛うじて回避された。
日本は最前線基地とされ、国内はすべて戦時色に被われた。「綜合原爆展」は、このような緊迫した情勢下で敢行されたのである。