被災者支援に赴いて(2)
東日本大震災から3カ月が経過、未だ被災地は厳しい状況におかれています。協会でもできる限りの支援をしようと、募金(3面)や現地派遣を行ってきました。本紙第2785号でも一部掲載しましたが、今回は3人の事務局の参加記を掲載します。
復興構想は住民の声で
5月3日から、関理事長に同行し、東日本大震災被災地支援活動に参加させていただきました。青森県保険医協会がコーディネートした岩手県の三陸沖で被災した方々に、青森市・浅虫温泉の「辰巳館」でリフレッシュしてもらおうとの企画。2泊3日のサイクルで、毎日どこかの町の人がやってきて、また避難所に帰っていかれました。
到着した日には大槌町の人たちが逗留されていました。関先生は早速、健康相談に従事されました。JMAT等を通じ、避難所にも医療スタッフは途切れることなく支援に入っていましたが、遠慮もあって、なかなか診察を受けられないという方もいらっしゃいました。ここでは気兼ねなく、健康の不安を訴えられていたように思います。そして、3月11日のあの日まで、自分は何をして生きてきたか、そしてあの日、何があったのかを、たくさん話されていました。
2日目に被災地を訪問し、物資届け等を行いました。そこで見たこと、聞いたことは、すでに関理事長が紹介されたとおりです。その他は、事務局は被災者の人たちに自動車へ乗ってもらい、弘前の桜祭りや、水族館へ行き、楽しんでもらうボランティアをやっていました。だから多くの被災された方々と触れ合うことができました。
子どもたちもいました。大槌町の仲良し2人組がいて、この4月に高校に入学したばかりだと言っていました。震災の日、彼女らは中学校で卒業式の練習中でした。合格した高校は津波にのまれたといいます。明るい顔をしていると思いましたが、想像もできない傷を背負っていると考えたら、会話ができなくなりました。
おかしな表現ですが、あの日から私にとって「被災地」に対する「匿名性」が薄まったように思います。報道で未だ目処の立たない「復興」の状況を見聞きする度、あの子どもたちを、いっしょに桜祭りに行った人たちを思い出します。すると、たちまち自分の情緒が不安定になるようです。そういう気持ちからいい加減に抜け出さなければというふうに思う一方、そういう気持ちを忘れてはいけないとも思っています。
復興構想会議が提言をまとめています。税と社会保障の一体改革も、「震災」を口実にむしろ加速し、強化されつつあります。
もちろん、復興は国の責任で行うべきです。
でもそれは、震災を「チャンス」に、国にとって都合の良い都市や産業の仕組みをつくって良いということではありません。被災地復興の構想を考える権利は、被災者だけが持っている。あの子どもたちこそが権利主体なのだと感じるのです。
そういう物事の感じ方を根拠のようにして、今日も協会政策部会で仕事をさせていただいています。これは、被災地に行かせてもらわなければ手に入れることのできなかったものだと思います。本当に、この機会をいただいたことに、感謝しています。(中村 暁)
再生に向かって進む地域の医療機関
仙台市青葉区・若林区・泉区、石巻市、気仙沼市。保団連支援隊として訪問した地域です。目の前にはマスコミにより報道されていた光景が広がっていました。テレビの画面から感じとれていなかったのは、臭いと埃です。沿岸部では、魚の臭いがしており、津波でヘドロが押し寄せた地域では、乾いたヘドロが埃となって舞っていました。地域住民の方々には、くれぐれもマスクの着用をお願いしたいと思いました。
そのような中、医療機関などを訪問し、見舞金をお渡しするとともに、連絡先や診療再開状況、再開予定などの聞き取りを行いました(5月10日〜13日)。医療機関または自宅が流失、全半壊など、比較的被害の大きかったところを中心に回りました。期間中、34医療機関を訪問しましたが、移転し再開(予定)という医療機関はありましたが、幸い「診療を再開しない」と言われた医療機関はありませんでした。地域医療を再生させるという使命まで意識できる状況におありかどうかはわかりませんが、各医療機関の方々が、一歩一歩確実に前に進まれているというのが強い印象です。
保険医協会は開業保険医師の団体です。いずれの訪問先でも、保険医協会・保団連の訪問を非常に歓迎していただきました。地域医療の再生に向けて動き出す地域の医療機関を支えていくことこそが、保険医協会・保団連に求められている仕事なのだと改めて教えてもらうことができました。
訪問活動を終えたある夜、仙台クリネックススタジアムまで東北楽天ゴールデンイーグルスの試合を観に行ってきました。結果は1対0で楽天の勝利。それまでの連敗を止める久々の勝利でした。前に向かって進む医療機関と楽天の勝利とを重ね合わせずにはいられない、震災からちょうど2カ月目の日のことでした。(花山 弘)
被災協会支援に参加して
5月16日〜19日、宮城協会での支援に参加しました。降り立った仙台空港の周辺には片付けられた車があちこちに積み上げられ、空港・仙台駅間を結ぶバスの車窓からは、北上する仙台東部道路の右手海側と左手山側では、大きく異なった景色が広がっていました。
自宅か診療所が全壊・半壊の被害に遭われた会員を訪問し、状況をお伺いして見舞金をお渡しすることが役割です。訪問先は仙台市内中心部が主でしたが、石巻市に診療所を構えておられたり、石巻市から避難されている方も多く、お伺いするお話の内容は、お掛けする言葉が出てこないつらい内容ばかりでした。市内中心部は、一見被害が軽微に映りましたが、揺れによる被害も確実に出ており、立退きや建て直し、大幅修繕が必要な診療所も少なくありませんでした。
一日だけ仙台を離れ、石巻市の会員を訪問しました。JR仙石線は東塩釜駅から先が不通で、そこからは代行バスで向かいます。道路は残っていますが、津波被害の大きかった野蒜などは津波後そのままの光景です。石巻市内も、道路を塞いでいた瓦礫はとりあえず脇に寄せられていますが、ほとんど片付いていないという印象です。
話を伺った先生は、診療所だった1階部分が天井まで浸かり、この2カ月、周囲からの再開を望む声も聞きながら、頑張ろう、いや無理だと毎日のように気持ちが揺れつつ少しずつ片付けをしてきたが、最近はほとんど諦めているとおっしゃいました。それは、ここが人の住めない場所になれば、診療そのものが成り立たなくなるからとのこと。津波被害の深刻さをあらためて思い知りました。
19日の地元紙に、県内136医療施設全壊、その内医科診療所68カ所との記事がありました。その前日には「県地域医療復興検討会議」の初会合が行われたとあります。そこでは、病診含めた再興の方向性が示されていますが、都市計画からの立案が必要であり、相当時間がかかるでしょう。先の石巻の先生は、ご自身が地域医療を担ってきたという自負をお持ちでした。このような一人ひとりの想いを大切にした、地域医療の再生こそが必要と感じました。(樋下光雄)