占領下の「綜合原爆展」(1)  PDF

占領下の「綜合原爆展」(1)

川合一良(下西)

 敗戦直後の1951年、世界で初めての総合的な原爆展が京都で行われた。今、東日本大震災による核の被害が大きな問題となっている現在、この展示を紹介したい。

今、何故原爆展か

 被ばく者は年々減少し、被ばく体験の継承が大きな課題となっている。これは、あの悲惨な原爆被害が二度とあってはならないというためであるが、それだけではない。内部被曝によるDNAの損傷は、後世に重大な障碍を引き起こすかもしれない懸念を否定できないからである。

 この課題を果たす上では、原爆展示が最も有効な方法である。

占領下・朝鮮戦争下に敢行された「綜合原爆展」

 1951年7月、京都駅前の丸物百貨店注)で10日間に及ぶ原爆展示が行われた。主催は京大同学会(全学自治会)で入場者は3万人を超えた。各学部の学生たちがそれぞれの専門性を生かしてシナリオを作り、専門の大工さんの手を借りて工学部の学生たちが190枚の大きなパネルを作り上げた。時には徹夜になることもあった。そして丸木位里・赤松俊子夫妻の「原爆の図五部作」も同時に展示され、視覚的にも惨状を訴えた。このように百貨店という公共の場所で市民を対象とし、しかも原爆被害を多方面から総合的に示した展示はわが国で、つまり世界で初めてのものであった。

 この時は未だ連合軍の占領下、しかも前年には悲惨で苛烈な朝鮮戦争が始まったという厳しい時代であった。

「綜合原爆展」の経緯

 戦後僅か5年にして強行された再軍備は国民に大きな衝撃を与えていたが、1950年11月30日、米大統領トルーマンは「朝鮮戦線で原爆使用もありうる」と発表し、世界を震憾させた。事態を重視した京大学生は、翌年の学内文化祭で医・理両学部自治会がそれぞれ別個に原爆展示を行い、同学会は天野重安(医)・木村毅一(理)両助教授による原爆講演会を開催したが、これらの催しは学内外の大きな反響を呼んだ。そこで広く京都市民にアピールしようとして行われたのが、この「綜合原爆展」である。京大当局は関知しないとの態度であったが、多くの教官が協力した。丸物百貨店が会場を貸すことを一度断ったことがあったが、この時の交渉には学生課長も参加している。同学会主催ではあったが、開催への全学的な賛意に支えられたと言ってよい。そんな時代であった。

 注)丸物百貨店=京都タワー北側。77年京都近鉄百貨店となり、現在同地はヨドバシカメラ。

パネル作成中の工学部学生
パネル作成中の工学部学生

綜合原爆展の展示に見入る参加者。説明する学生の姿も見える
綜合原爆展の展示に見入る参加者。説明する学生の姿も見える

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